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正木氏菩提寺・正文寺

2018/05/23

寺院 南房総市

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正木氏菩提寺〈正文寺〉と佐奈田氏


正文寺

応永三十年(1423)の『鎌倉御所持氏御教書』(極楽寺文書)に、「安東郷朴谷村を真田刑部左衛門尉が押領していた」という記録が残されています。そして今回訪れる正文寺は正木氏の菩提寺ですが、前身は真田氏の菩提寺であったと伝わっています。房総半島にも勢力を広げていた鎌倉期三浦一族の確実な痕跡をついに安房国朝夷郡で見つけることができました。しかも”やぐら”付きとのこと。とてつもない優良物件の予感。

基本情報

名称 :威武山正文寺
住所 :千葉県南房総市和田町中三原270
拝観料:なし
駐車場:有り


正文寺は朝夷郡三原郷、現在の地名でいうところの南房総市和田町中三原に所在しています。そして朝夷といえば、なんといっても朝比奈(朝夷)三郎義秀の名字の地でもあります。吾妻鏡でさえもその強さを褒め称えたあの朝比奈三郎義秀が生まれ育った故郷だと考えると感慨深いものがあります。周辺は視界のほとんどを緑と青が占めるという素敵な”ほのぼの”風景が広がります。

正文寺周辺

正木氏と真田(佐奈田)氏


正木氏は三浦道寸義同の子の時綱(のち通綱に改名)が新井城落城後に安房国へと逃れそのまま房総半島に定着した一族です(系図は諸説あり)。この時綱(通綱)の孫にあたる正木頼忠(環斎)が父・時忠の菩提を弔うために建立したのが今回訪れた正文寺となります。

一方で治承の頃に真田源吾の菩提寺として創建された禅寺であったとも伝えられており、鈴木かほる著『相模三浦一族とその周辺史』によれば、この真田源吾なる人物に関して「治承の頃、真田姓を称したのは佐奈田与一義忠とその系投しか存在しない」という見解を示しています。

正文寺の地形


正文寺は低丘陵の台地を削り平場を造成したようで、前面通りより幾分高い位置にあります。周辺は緑地のため一見して旧態地形のままであるかのようにも思えますが、畑地・牧場などとして開発されています。そして境内を囲むように土塁状の地形が確認できます。周辺の土地開発における丘陵の削り残しによってこのような地形形状になったとも考えられますが、正文寺が正木氏の、そして真田氏の菩提寺であったことからも、有事の際の城郭としての機能を持ち合わせていたかのような雰囲気にも思えます。

Google map 正文寺
①仁王門 ②土塁状地形 ③祖師堂 ④本堂
土塁状地形

正文寺境内


それでは正文寺へ。仁王像は室町期のものであるとのこと。いつもそんなに意識して見ていませんでしたが、仁王像って睨みつけるようにこちらを向いていませんでしたっけ、うつむき加減に下を向いているものを初めて見た気がします。

正文寺の仁王門
正文寺の仁王像
うつむき加減な仁王像
山門からの本堂

大正の頃まで普門寺というお寺が近くにあったそうです。天平十九年(747)に行基が開いたと云われています。その普門寺の観音像が祖師堂に安置されています。

祖師堂

正文寺やぐら群


丘陵部壁面に”やぐら”がいくつも施されています。館山地方(平群郡・安房郡)によくみられる小型サイズとは異なり、こちら朝夷郡のものは鎌倉の”やぐら”と比べても遜色のない造りです。

いぼ観音やぐら

上画像のやぐらにあるあからさまに頭部と胴体が異なる石像仏は十一面観音菩薩で、”いぼ観音”と呼ばれています。風化が激しいため観音像だと気付く人はいないでしょう。ちなみに”いぼ観音”は等身大です。やぐらの大きさが伝わるでしょうか。そして下画像のやぐらは三基の五輪塔が浮彫りされています。基壇に龕が設けられているのがポイントです。

浮彫五輪塔やぐら

こちら下画像のやぐらには阿弥陀三尊像の浮彫りが施されています。こちらも風化が激しいためよくわかりません。左のものは像というより位牌かなんかを浮彫りにしてあるのかと思ったほどでした。

阿弥陀三尊像摩崖仏
阿弥陀三尊像摩崖仏

正文寺の遺構・遺跡・遺物


丘陵部壁面沿いに石塔がたくさん転がっています。鎌倉で見た鎌倉期の宝篋印塔にそっくりなものまでありました。このお寺の古い歴史が伝わってくるようです。このことからも真田氏の菩提寺が前身だったという伝承はまず間違いないでしょう。また真田氏の墓塔・供養塔もこの中に紛れ込んでいるのかもしれません。

正文寺丘陵部壁面の造作と石塔群
気になる宝篋印塔
気になる五輪塔

こちら下画像は禅寺だった頃の庭園池の名残りでしょうか、・・そんな古い時代のものが残っている訳ないか。

正文寺の庭園池の名残りのような造作

その後の真田氏


永禄年間(1558~70)に真田隼人佑が正木信茂の命で三原から転出し在城衆に組み入れられたという資料が残されています。三浦一族の多くが栄華を極めそして没落していきましたが、真田氏は房総半島で長い間生き残っていたようです。正木氏が里見氏の配下でありながら半ば独立的な立場を保てたのも、真田氏のような房総半島に定着していた三浦一族の支えがあったからだとも云われています。

鐘楼の隙間から見える景色は一面の緑

牛頭観世音


実は正文寺にいる間とても芳ばしい匂いが漂っていたんです。というのも牧場が隣接していたからなんです。あまりの可愛さにひとつの史跡を見学できるぐらいの時間をここで費やしてしまいました。

「おっ知らない顔やな」
「ナメたろか」

話しかけると近づいてきてくれます。舐められてわかったんですが牛の舌って猫の比じゃないくらいザラザラしているんですね。馬の方は仔馬というかポニーでしょうか。それにしても牛や馬がこんなにも可愛いものだとは知りませんでした。でもよく考えたらここ動物園でもないし私有地だし、いい大人が本当にすいませんでした。あまりにも可愛いかったので。

「しゃぁないそっち行ったるわ」
「可愛く撮ってや」

正文寺を出て移動していたら道端に牛頭観世音がありました。昔は牛も馬も農作業や運搬作業などに従事していたはずです。このように彼らを弔う石造物があるということはきっと飼っていた人たちがその苦労をねぎらって、または彼らを家族のように扱っていたからだと思います。可愛かったあの子たちを見た直後だけにその気持ちがすごい伝わってきます。これほど感情移入した石造物は初めてかもしれません。思わず手を合わせずにはいられませんでした。

牛頭観世音

参考資料


〇鈴木かほる著『相模三浦一族とその周辺史』
〇たてやまフィールドミュージアム

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