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観音寺と権現洞穴

2016/07/17

横須賀市 海蝕洞穴

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観音寺と権現洞穴



三浦半島の東南に位置する観音崎。東京・神奈川の人なら行ったことはなくとも地名ぐらいは知っていると思います。その観音崎には権現洞穴という、その言葉の響きだけでも興味の惹かれる史跡が存在しました。楽しみです。

基本情報

名称  :権現洞穴
住所  :神奈川県横須賀市鴨居4丁目
駐車場 :有り

観音崎


観音崎の地名は、行基が十一面観音(船守観音)を海蝕洞に納めたことに由来すると云われています。観音崎にあった観音寺の山号を仏崎山と云うことからも、もともとこの辺りは仏崎と呼ばれていました。その後観音寺の創建によって観音崎になったと云われています。

たたら浜からの景色

観音崎の丘陵周辺を一周することができます。鎌倉遺構探索ではこのとき浦賀方面(画像の下から)からやってきました。画像①は海岸線道路から外れて小さな素掘りのトンネルを抜け観音寺跡に向かうコース。画像②は車も通れる大きなトンネルを抜け、バーベキュー・エリアを経て回り込む正規?のルートです。

Google map 観音崎
①のルート上にあるトンネル 怪しいけど行って大丈夫

観音寺跡


観音崎からの海の景色を眺めながら進むとちょっとしたスペースがあります。何もお寺らしい痕跡はありませんが観音寺があった場所です。

観音崎からの景色
観音寺跡

現地案内板に、東京国立博物館に所蔵されているという観音寺の絵図が紹介されていました。思っていたより規模が大きいことに驚きます。「天正十九年(1591)仏崎山観音堂料三石の御朱印をいただいております」とありました。豊臣秀吉の小田原攻めが、天正十八年(1590年)なので御朱印は徳川家からいただいたのでしょうか。江戸時代には本殿・般若堂などが建ち並び、村民や漁民・船乗りたちの信仰は大変厚いものだったそうです。

江戸時代の観音寺

『横須賀こども風土記』に、鴨居の領主多々良四朗義春石井三郎・四郎兄弟らと海賊を撃退し、降伏してきた”島の波六”を観音寺の堂守にしたというエピソードが記されていました。

茶屋跡


観音寺跡にある前面スペースには規則的に穴がいくつも開いています。茶屋があったとも記されていたのでその跡だと思われます。現代で何も知らずに発見した人は「これは何の遺跡なんだ?」と大興奮だったでしょう。穴だけでなく階段まであります。現在も浜辺には多くの人がいますが、昔からこの辺りが賑わっていたということが伝わってきます。

茶屋跡
まさかの階段跡

ちなみに茶屋と言っても実際は料亭だったそうです。この時代の料亭を茶屋と表現するのでしょうか、そういえば葉山の日陰茶屋などもそうでした。もしかしたら朝比奈切通にあった茶屋というのも料亭だったのかもしれません。茶屋と言うからてっきり喫茶店のようなものだと思っていました。

鵜羽山権現洞穴


さて、鎌倉遺構探索的にはクライマックスな史跡です。観音寺跡のすぐ近くに洞窟があります。これを鵜羽山権現洞穴と云います。この洞窟は残念ながら”やぐら”などの類ではなく海に削られた海蝕洞です。でも雰囲気がとっても素敵です。

鵜羽山権現洞穴

『横須賀こども風土記』によれば、その昔この洞穴には大蛇が住んでいて、船をひっくり返すなどして村人を困らせていました。天平十三年(741)、行基がこの地に訪れ、洞穴に住む大蛇の霊を鵜羽山権現として祀ったことから、海上は穏やかになり、全ての船が無事に航行できるようになったということです。その後、村人たちがお堂を建て、それがいつからか観音寺になりました。鵜羽山権現は船守観音とも呼ばれ、観音寺の本尊である十一面観音を指します。

洞穴内にあった貝の跡がある石 この穴が海蝕洞だったことがわかる

いつの時代のものなのかわかりませんが、洞穴内壁面にちょっとした造作がみられます。現在は朽ち果てた祠が転がっているだけでしたが、往時は色々と祀る対象があったのかもしれません。

洞穴内にあった壁面造作

和田合戦が起こった健保元年(1213)に、堂守がこの十一面観音像を持ち出してどこかに行ってしまったそうです。その後、寛元二年(1244)、走水沖の海底に光るものがあり、漁師がこれを網で引き揚げると、その失くなった十一面観音像だったということです。長谷寺や浄光明寺など、海から拾い上げたという仏像の話をよく聞きますが、何か深い意味でもあるのでしょうか。

亀崎の観音寺


現地案内板に、明治13年(1880)、観音崎に陸軍砲台がつくられることになり、翌年、観音崎の観音寺が鴨居の亀崎という場所に移されたとありました。

Google map 鴨居
①権現洞穴 ②亀崎

亀崎に移された観音寺でしたが、昭和61年(1986)の火災で本尊を含め全てが焼失し、その歴史を閉じることとなります。行基作と伝わるその本尊も今となってはどういう像だったのかもわかりません。現地では、三浦三十三観音第十四番札所として一応小さなお堂が建てられていました。吉井の真福寺がその第十四番札所の代役を担っているので、このお堂は旧跡を示す碑と受け取るのかもしれません。

亀崎観音寺

亀崎観音寺は観音崎と同じく岬の突端にありました。現在では現代のテクノロジーが船の安全な航行を見守ってくれています。役割を終えたと悟ったのか、権現さまは自らいなくなったのかもしれません。

亀崎観音寺があった場所

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