タイトルのテキスト
タイトルのテキスト
タイトルのテキスト
タイトルのテキスト

怒田城跡

2016/07/01

横須賀市 城郭

t f B! P L

怒田城跡



『延慶本平家物語』より引用
「怒田城こそ、廻は皆石山にて一方は海なれば、吉者百人計たにも候はば、12万騎寄たりとも、くりしかるましき所」


『平家物語』や『源平盛衰記』に記されている三浦一族の怒田城旧跡は、三浦半島の東南にある久里浜港からも近い横須賀市吉井の小字沼田に所在しています。城跡のある吉井の台地は、台崎、もしくは城山とも呼ばれており、もとは岡崎義実の城館でしたが、杉本義宗に引き継がれたと云われています。

基本情報

名称:怒田城跡
住所:神奈川県横須賀市吉井1丁目1−23


縄文時代の久里浜周辺


怒田城跡のある吉井周辺は、縄文時代では低地に海が広がり、城跡となる台地はいわば岬の突端となっていました。入江は衣笠近くまで深く入り込んでいましたが、弥生時代には佐原辺りまで海岸線が後退しました。また江戸時代になっても周辺は湿地帯となっていたと現地案内板にあったので、中世では吉井の辺りまで海が入り込む内海、もしくは内湾状態となっていたようです。

現地案内板より 吉井貝塚が怒田城跡

怒田城跡のある吉井台地では、縄文時代の貝塚が見つかっており、吉井貝塚として周知されています。その他弥生時代から古墳時代にかけての竪穴住居などの集落跡が発見されています。上画像にあるように、陸地では猪・狸・鹿、海では豊富な魚介類が獲れていたようです。ちょっと楽しそうですね。

怒田城跡からの景色 当時は視界いっぱいに海が広がっていた

ということで、現在の様相からは想像もできませんが、周辺が海だったということを理解しないと怒田城の凄さが伝わらないので、このようにちょっと遠回りの説明となりました。

三方を海に囲まれた堅固な城郭 怒田城


『三浦半島城郭史』に、『源平盛衰記』からの引用が載せられていました。一番上で紹介した『延慶本平家物語』と似ていますが、こちらの方が若干想像を膨らませやすいかと思われます。

怒田の城は三方は石山高うして馬も人も通ひ難き悪所なり。一方は海口に道一つ開けたれば、善き兵200人有らば、たとひ、敵何万騎寄すとも、たやすく攻め落すべからず



Google map 怒田城
①現存する怒田城の地形 ②怒田城の失われた地形 ③真福寺 ④御林

上地図画像②の黄色の線内は、現地案内板をもとに土地開発で失われた丘陵を再現したものです。『源平盛衰記』にあるように、三方を海に囲まれ一方にしか入口がない賢固な城郭だったという怒田城をいくぶん想像できるかと思われます。新井城と同じく陸地側の防御を固めれば、敵が攻めあぐむのは必至でしょう。

怒田城跡


怒田城跡はJR久里浜駅、もしくは京急久里浜駅が最寄り駅となります。平作川を渡り真福寺の近くに吉井貝塚の案内板があるので、その丘陵を登って行きます。

平作川
怒田城跡・吉井貝塚のある台地を登っているところ

発掘調査の結果 空堀と土橋を検出


台地上では段差のある平場が確認できます。上記したように、吉井台地は城郭跡であり貝塚でもあるので、色々と詳しい案内板が所々に設置されています。

Google map 怒田城跡

上地図画像は現存する現在の丘陵の姿です。高低差のある3つの平場が確認できます。そして④の白線が空堀のあった場所です。下画像の地形が失われる前を見比べるとわかりやすいかと思いますが、上画像の④に空堀があるということは、失われた地形部分がどうやら主郭部だったようですね。よりにもよって。

歴史的農業環境システムをGoogle earthで表したもの
①失われた主郭部 ②現存する丘陵部 ③真福寺 ④御林

空堀のある平場 案内板やアウトラインで丁寧に示してくれている

発掘調査の結果、幅4.5~5m、高低差1.7~3mの「V」字状をした箱薬研堀が検出されました。但し、埋め戻したようで、現地では明確な造作を確認することはできません。また、確実な遺物は出土されなかったものの、空堀の底面が12世紀末~13世紀初頭という測定結果が出ているため、やはりこの地こそ、『源平盛衰記』に記された三浦氏の怒田城であることがほぼ確実だと考えられています。

発掘調査で見つかった空堀断面図

三浦水軍の根拠地だった怒田城


『三浦半島城郭史』怒田城項より引用。
「三浦半島を横断する古道の一端として房州に対する交通上の起点が何処であったか明らかにせられていないが、少なくとも平安末期に怒田城がここに置かれた当時にはこの前面の入江が港としての役目にあったことが想像せられ、交通上の要点であればこそ、三浦氏がここに城館を構えて港を押さえたものであると考えられるのである。後に三浦氏が衣笠城落城の際、この港の出口である久里浜から乗船したことは怒田城が三浦氏の水軍の根拠地であったればこそと考えられる。」


歴史的農業環境システムをGoogle earthで表したもの
①衣笠城 ②佐原城 ③怒田城

上地図画像は大よそ120年前、明治初期の地図です。衣笠城が三方を山に一方を海に囲まれた城だとあったので、往時でも佐原城の辺りにまで海が入り込んでいたのかもしれません。怒田城の東側を船蔵(舟倉)谷と云います。その名のとおり、多くの船が停泊していたからこそ名付けられた地名なのでしょう。

衣笠合戦と怒田城


治承四年(1180)、小坪合戦(由比ヶ浜合戦)の報復として、畠山重忠・河越重頼・江戸重長らの平家方勢力が三浦一族を襲来します。和田義盛がこれら平家方勢力を怒田城で迎え撃つべきと三浦大介義明に進言しますが、義明は衣笠城で応戦する決定を下しました。

和田義盛の発言は、怒田城が衣笠城より城郭として優れていることを暗に示しているととらえることもできますが、義明はこのとき既に死を覚悟しており、詰めの城、もしくは一族の聖地である衣笠で最期を迎えたいと考えていたようです。義明が捨石として衣笠城に残ったことにより、主だった一族は房総半島へと逃れることができました。

久里浜と房総半島を結ぶフェリー

現在久里浜~鋸山間をフェリーが航行しています。車ごと乗船できるので便利です。そしてこの航路はもしかしたら平安時代から三浦氏が使っていたものなのかもしれませんね。

住吉神社(栗濱明神)


久里浜港の出入り口部分に住吉神社があります。社伝によれば、治承四年、三浦義澄が衣笠城落城前夜に一族郎党を引き連れ、ここ栗濱大明神(住吉神社)に祈願し、頼朝と共に房州へ渡ったとありました。その後も頼朝夫妻、そして佐原義連や北条時連が参詣したとあります。確かに『吾妻鏡』に「栗濱明神」が確認できます。一族が海に出るときはここでお参りしていたようです。

住吉神社(栗濱明神)
しらはま丸 住吉社のすぐ近くにフェリー乗り場がある

御林


怒田城跡から続く丘陵沿いに真福寺というお寺があり、さらにそこから浦賀に抜けられる旧道「御林」があります。久里浜から浦賀に向かう機会があれば絶対にこの道を行くべきだと思います。

御林

真福寺から高坂小学校までの道を御林と云い、浦賀奉行所が管理した幕府の御用林でした。峠の辺りを「かんのんやま」、高坂側の坂道を「六部坂」と呼ばれています。旧道の趣を残した素敵な切通しです。

ブログ内検索

ブログ アーカイブ

お問い合わせ

名前

メール *

メッセージ *

QooQ