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房総半島(千葉県)と紀伊半島(和歌山県)には、地名・食文化・方言など、多くの共通点・類似点がみられます。これは房総・紀伊半島の出身者の間では結構有名な話なんだそうです。
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紀伊半島と房総半島 |
房総半島と紀伊半島の類似点
さて、具体的に房総半島と紀伊半島にはどのような類似点があるのかというと、大まかに以下の点が挙げられます。杉浦敬次さんのHPと桑原政則さんのブログを参考にさせていただきました。
○房総半島・紀伊半島のどちらにもある地名
勝浦・白浜・和田・三崎・布良・目良
○房総半島・紀伊半島のどちらにもある郷土料理
イワシやサンマのなれずし・なめろう
○房総半島・紀伊半島のどちらにもある言葉
たく(煮る)・おおきに(ありがとう)・われ(おまえ)
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南房総半島名物のなめろう |
その他、房総半島・紀伊半島の面積は共に約5000平方キロメートルで、気候も植生(しょくせい)もそっくり同じだとありました。また、南房総市和田町と和歌山県太地町は、共に全国でも有数の捕鯨基地なんだそうです。そしてどうしてここまで両者に類似点があるのかというと、定説としては、近世にて漁業関係者が紀伊半島から房総半島へ移住したことに起因するようです。確かに上記した方言も関西寄りの言葉ですね。
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房総半島の鋸山に遊びに行ったときのもの 水平線に見える陸地は三浦半島 |
紀伊の守護は三浦一族の佐原氏
とここまでがネットで調べたものですが、最近、鈴木かほる著『相模三浦一族とその周辺史』を読みました。同書の一部に今回のテーマに関係するのではないかという部分をみつけました。三浦一族の佐原氏が登場します。
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三浦大介義明の五輪塔が残されている材木座来迎寺 |
三浦大介義明の末子である佐原十郎義連は、紀伊(和歌山県)・和泉(大阪府)両国の守護であり、また遠江国城飼郡笠原荘(静岡県掛川市)の惣地頭兼預所だとありました。佐原氏は、駿河・紀伊・和泉の三国を領し、遠州灘に面した海陸交通の要衝・笠原荘を押さえ、本拠三浦半島を海路で結ぶネットワークを有していたともあります。三浦半島にとどまらず房総半島をも支配していた三浦一族の佐原氏が紀伊の守護職に就いています。この事実からも、房総・紀伊半島の類似点に、この佐原氏及び三浦一族の存在が関係するのではないかと思えてきます。
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三浦氏略系図 |
三浦一族に関連する地名
面白いのが、房総・紀伊半島のどちらにもある地名に「和田」「三崎」といかにも三浦一族を連想させるワードが入っていることです。さらにこうした視点で考えると、ちょっと強引かもしれませんが、「布良」「目良」という地名も、安房平北群多々良庄(富浦町)を領していた三浦多々良氏に関係するのかもしれません。ちなみに、あまり鎌倉の歴史に詳しくないという方のために補足すると、平安末期、三浦義明の長男となる杉本義宗が、安房平北群(安房郡鋸南町、南房総市の富山町、富浦町、三芳村滝田、館山市舟形、那古など)を領し、その後に和田義盛などへと伝領されたと推測されています。和田義盛が滅んだ後は、三浦本家の統治が宝治合戦まで続きました。ですから三浦一族といっても、三浦半島だけでなく房総半島との縁も深いんです。
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杉本義宗の邸跡 杉本寺 |
朝比奈三郎義秀が落ち延びた先とは
そしてさらに、朝比奈町内会刊行の『朝比奈の歴史』に、ダメ押しとも言える説が載せられています。「和田合戦の後、窮地を脱した朝比奈三郎義秀の船団は、安房からさらに西国に向う途中、熊野灘で遭難し、太地(和歌山県)に漂着し住みついた。そして太地捕鯨を取り仕切ってきた和田姓の一族は、義秀の後裔であると云われている」とありました。上記したように、房総・紀伊半島は国内有数の捕鯨基地です。不確かな伝承ながらもどこか話がつながってしまいます。
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Google map 三浦半島と房総半島 |
朝比奈三郎義秀は、房総半島で生まれ育ったため、その苗字は安房朝夷郡和田(南房総市和田町)に由来すると云われています。そしてこの三郎義秀の父となる和田義盛の房総半島における邸が、上総や富津にあったと考えられています。朝比奈三郎の紀伊半島における伝承が本当であれば、房総と紀伊を結ぶ縁がこの頃から培われていたとも考えられます。但し、朝比奈三郎義秀は、和田合戦の戦死者名簿にその名が載せられています。
まとめ
以上のように、房総・紀伊半島の類似点に付け加えた三浦一族との接点として、佐原氏が紀伊の守護であったこと、三浦一族に関連する地名が紀伊半島にみられること、そして不確かながらも朝比奈三郎義秀が紀伊半島に渡った伝承が残されていることが挙げられます。紀伊半島の人たちが黒潮に乗って何故房総半島にたどり着いたのか、伊豆半島や三浦半島でもなく何故房総半島なのかと考えたとき、前述したように、気候や植生が似ているからという意見もありますが、近世にて紀州の人たちが房総半島を目指した要因の一つに、一部の人たちにとっては先祖の地に帰るといった部分もあったのかもしれません。
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安房郡鋸南町の日本寺にあったやぐらのような造作 鎌倉との類似点も・・ |
カテゴリー 鎌倉研究部
記事作成 2015年2月4日