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建長寺四方鎮守 第六天エリア

2014/11/19

鎌倉市 社寺 廃寺

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浄光明寺のある泉ヶ谷の奥で巨福呂坂と亀ヶ谷坂に沿った丘陵部分が旧態のまま残されています。なかでも下地図画像に番号を印した旧巨福呂坂に沿った周辺では、やぐら・掘割状・平場など、多様な土木遺構が随所でみられます。『建長寺伝延宝図』によれば、このエリアに建長寺塔頭が所在していた様子が描かれています。

Google map 旧巨福呂坂
①青梅聖天 ②平場・石組み ③平場・堀切 ④平場・やぐら ⑤円応寺 ⑥塚状・やぐら・祠 
⑦禅居院 ⑧丘状・祠 ⑨平場 ⑩平場・堀切

建長寺四方鎮守第六天


下絵図は、延宝六年(1678)『建長寺伝延宝図』(以下延宝図)です。建長寺対面に、第六天が所在しています。一般拝観を受け付けていないようなので、その存在はあまり知られていないかもしれません。現地案内板によれば、「第六天は仏教では他化自在と称し、魔王の如き力を持つといわれ、神道では第六天神、すなわち、第六番目の神と認識されている」とありました。さらに「現在、建長寺の四方鎮守の中で、その位置と沿革が明らかなのは第六天だけ」だという面白い記述がみられます。どうやら建長寺では、四方の鎮守として、中央五大尊と八幡(東)・熊野(北)・子神(西)・第六天(南)が祀られていたようです。それにしても四方鎮守って、何やら神秘的な雰囲気が漂います。ということで、今回この建長寺対面にある丘陵部を第六天エリアと呼称します。

建長寺伝延宝図 四方鎮守第六天

建長寺塔頭金龍庵跡


青梅聖天、もしくは泉ヶ谷の最奥からこの丘陵部を目指します。(ここまでのルートは巨福呂坂の記事で紹介しています)尾根道を進み、建長寺側から見た巨福呂坂トンネル出入口付近の丘陵部に、平場・掘割状などの地形が確認できます。延宝図で確認したところ、金龍庵跡とありました。金龍庵は、康応元年(1389)に没した建長寺43世の石室善玖の塔所です。

金龍庵跡平場

木材が何年経ってもそのまま平場の中央に放置されています。不思議な雰囲気です。また、大きめな掘割状、もしくは堀切が尾根道からこの平場に続いています。平場からは巨福呂坂を歩いている人たちを上から眺められます。

堀切

神社跡?平場


金龍庵跡平場から円応寺の裏を通りすぎます。円応寺は建長寺塔頭の大統庵跡に建てられていると市史にありました。そのまま尾根を進むと、風化して貫通したかのようなやぐら、そして一部土塁状で覆われた平場が現れます。さらにこの平場にまたやぐらがあります。

貫通しているやぐららしき横穴
平場にあるやぐら
平場

こちらも延宝図に何か記されているのですが、字が読み取れません。但し、第六天と同じ様式の建物がこの位置に描かれているため、神社のようなものがここにあったのかもしれません。

建長寺伝延宝図 「富士」とも「古山」とも読める気がする

禅居院エリア 「塚状地形とやぐら」


平場をあとにして進むと次に現れるのが、塚状地形とやぐらです。頂部には祠が置かれています。どこか特別感のある雰囲気がありますが、残念なことに、延宝図にはこの場所だと思われる箇所に何も描かれていませんでした。但し、この辺りから禅居院の裏山となるようです。

塚状地形にあるやぐらの一つ

禅居院は、暦応二年(1339)に没した建長寺22世の清拙正澄(大鑑禅師)の塔所です。祠とやぐらはこの大鑑禅師に関連するものなのかもしれません。

塚状地形と頂部にある祠

木々の隙間からふと見えた景色に驚きます。この塚状地形は、建長寺伽藍が建ち並ぶラインの延長線上に位置しています。延宝図には、もう少し亀ヶ谷坂寄りに進んだ辺りに建長寺四方鎮守の第六天が描かれていましたが、こちらの方がその鎮守が位置するのに適した場所のように思えます。もちろんこうした類のものは素人が発想するような単純なものではないんでしょうけどね。ホントは何があったんでしょうココに。

塚状地形から見える景色 建長寺伽藍が直線上にあることがわかる

禅居院エリア 「溝状・掘割状通路」


不思議なことに、延宝図には「禅居庵跡」と記されているように見えます。現在の禅居院は再興されたものなんでしょうか。そしてここで興味深い地形が現れます。尾根道に並行するように掘割状が続いています。尾根道を遮るように堀切があるのならまだしも、並行して掘割状がみられるというレアな地形です。そういえば、多宝寺跡付近の尾根道にも尾根と並行した堀切道がありました。

禅居院裏にあった溝状・掘割状地形

この地形に言及していると思われる資料を鎌倉市教育委員会の調査報告書で見つけました。「禅居院の裏手、山ノ内路を見下ろす山稜の尾根筋に沿って、延長100mにおよぶ掘割状の溝が存在します。」「寺院の境界と山ノ内から扇ガ谷への通行を分断するための施設と考えられますが、底面が平坦になっており、深さが2mもあるため、ここを通れば人目に付かず移動が可能な通路として用いられた可能性もあります。」きましたね、典型的な鎌倉の堀切=境界線説です。

禅居院裏から見える景色 建長寺と隣接する学校校舎

第六天エリア 「第六天社跡?」


さらに亀ヶ谷坂方面に進みます。また地形が盛り上がっています。今度は塚状というより少しスケールが大きいので、丘状とでも表現したほうがいいのでしょうか。そしてその丘状の頂部にはまた祠が置かれています。実際の地形と絵図の描写を比較するに、ここがもしかしたら絵図に描かれている第六天の位置にも思えます。

丘状地形と祠

『かまくら子ども風土記』に「山ノ内の鎮守とされ、7月15日から22日まで例祭が行われます。」とありました。第六天は現存するようです。場所を変えたのか、それともそもそもここが旧第六天社位置ではないのか、わかりません。

「覩史庵跡」「長寿寺境内」「満光寺跡」


祠のあった丘状地形を過ぎると、こんどは広めの平場にでます。延宝図から推測するに、覩史庵があった場所だと思われます。ここはちょうど巨福呂坂にも亀ヶ谷坂にも面する角地です。木々の隙間から長寿寺が見えました。都史菴は、貞和二年(1346)に没した建長寺26世の仏頂禅師こと白雲恵宗の塔所です。仏頂禅師は無学祖元に師事していました。そのまま亀ヶ谷坂に沿うと、ひな壇状地形と堀切などが確認できます。延宝図には「長寿寺境内」と「満光寺跡」とありました。昔は亀ヶ谷坂を挟んだこちら対面も長寿寺の敷地だったようです。尾根道で見たこの堀切は、長寿寺境内と満光寺の境界線だったのかもしれません。

亀ヶ谷坂に面した丘陵部
亀ヶ谷坂に面した丘陵部尾根 画像中央辺りに堀切があった

丘陵部造作はいつからあったのか


禅居院の清拙正澄が暦応二年(1339)に没したのをはじめ、その後、都史菴の仏頂禅師が貞和二年(1346)没、大統庵の仏観禅師が応安二年(1369)没、そして金龍庵の石室善玖が康応元年(1389)に没しています。これら塔頭寺院が創建されたのもその頃と考えると、この丘陵部が現在のような区画で土地開発されたのが14世紀頃となります。ここは巨福呂坂と亀ヶ谷坂に囲まれた絶好の立地です。鎌倉時代に何も土地開発がされていなかったとは考えにくいと思います。建長寺の塔頭建立以前は何があったのでしょう。



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