2014年4月15日火曜日

北条泰時


生年没年 寿永二年(1183)~仁治三年(1242)
烏帽子親 源頼朝
最終官職 執権
法名   観阿


三代執権となる北条泰時は、鎌倉内外での勢力争いに終始した祖父の時政や父の義時と共に、血なまぐさい合戦を経験しながらも、自身の後半生では、合議制を取り入れた見事なまでの政治力によって、北条氏政権を安定させています。また、武家社会初となる成文法「御成敗式目」を制定したことで周知されています。鎌倉幕府を武力ではなく、政治力で磐石なものとしたその功績は、現代ではもちろん、南北朝期や江戸期の学者などからも高く評価されています。

泰時周辺系図 番号は執権

出自


寿永二年(1183)北条義時の長男としてこの世に生まれます。幼名を金剛と云います。不思議な事に、これだけの大物でありながら母の名が不明となっています。一部系図では、阿波局が母とされていますが、この時代の阿波局とは、祖父の時政の娘で、阿野全成に嫁いでいる女性を指します。つまり父である義時の姉妹となる女性が母親となってしまいます。また、頼朝が烏帽子親です。頼朝から一字をもらい、北条氏の通字とあわせ、頼時と名乗りますが、何故かその後に泰時と改名しています。

泰時の邸や御所があった辺り

家族


建仁二年(1202)泰時20歳のときに三浦義村の娘と結婚し、翌年に長男の時氏が生まれます。どういう事情かはわかりませんが、その後義村娘とは離婚しています。
建暦二年(1212)に二男の時実が生まれます。母は安保実員の娘です。いつ再婚していたのかは不明です。その他、姫宮・小菅ヶ谷殿などの女子が系図にみられます。また、同じく系図に、後に僧侶となった公義という名が見えますが、成福寺の寺伝でも開山である成仏(泰次)が泰時の子だとありました。

泰時の子が開山となった成福寺

明恵上人との出会い


泰時が最も感銘を受けた人物として、明恵上人がその一人に挙げられます。明恵上人は、京都に高山寺を建て、華厳宗の復興に努めた高僧です。2人の間で和歌の贈歌が何度も交わされているのが確認されています。泰時が明恵上人と出会ったのは、承久の乱における戦後処理の時でした。残党狩りの際、明恵上人が朝廷側の兵を匿っていたとして、捕らえられ泰時の前に連行されてきます。泰時が事の真意を尋ねると、明恵上人は「兵を匿うことこが政道の妨げとなるならば、愚僧が首をはねられよ」と言い放ったと云われています。また、泰時の政治家としての相談に「国の乱れる原因は欲心にある。貴殿がまず欲心を捨てられたならば、天下の人もその徳に誘われよう。」と助言しています。撫民政策の先がけとして知られる泰時の政治方針に、この明恵上人が大きく影響したようです。泰時が丹波の国の一荘を明恵上人に寄進しようとした際、「寺領があれば住層は怠惰になり、道心を失うのであり、僧は人の恭敬を衣食とすればよい」と明恵上人は辞退したと云われています。泰時が師として惚れ込んだ理由が伝わってくるような逸話です。

泰時が構築に携わった和賀江嶋

絶体絶命のピンチ


□承久の乱
承久三年((1221)その後の鎌倉幕府及の命運を大きく左右することとなる承久の乱が勃発します。このとき泰時39歳です。この幕府対朝廷の争乱に、泰時は東海道から進む本体の大将として上洛します。終わってみれば出発からわずか20日で京都を占領するという幕府側の大勝利に終わりますが、宇治川での合戦では「味方の敗色濃く、今や大将の死すべき時。河を渡り軍陣に命を棄てよ」と19歳になる我が子時氏に命じる程の苦境に陥った泰時でした。

□伊賀の方クーデター
元仁元年(1224)6月13日、父である義時が亡くなります。同時に義時の正室伊賀の方が実子政村を跡継ぎとする陰謀が露見します。同じく伊賀氏寄りであった三浦義村を北条政子が丸め込み、クーデターともいえるこの一件を未然に防ぎます。承久の乱以降、六波羅探題として京都に留まっていた泰時は、6月17日に京を出発しましたが、19日に出発した時房と共に27日に鎌倉入りしています。この時代、鎌倉~京都間を急げば4日ぐらいの行程で到着できたそうです。父が亡くなり執権不在という緊急時に、泰時は10日もかけて鎌倉入りしています。これは政村擁する伊賀氏・三浦氏との不測の事態に備え、伊豆に一旦留まっていた、もしくは軍備を整えていたなどと考えられています。のこのこ鎌倉に直帰していたら命を落とす危険があったのかもしれません。

泰時が造道を監督した朝比奈切通

苦難の時


安貞元年(1227)二男の時実が家人高橋二郎に殺害される。
寛喜元年(1229)三浦泰村に嫁いでいた姫宮が出産後に体調を崩し母子共々死亡。
寛喜二年(1230)長男の時氏が28歳の若さで病死。

さらに追い打ちをかけるように、寛喜二年~三年にかけた天候不順によって大飢饉が起こり、政治家としても頭を抱える状況が続きます。泰時はこのとき石高にして九千石もの私財を投入したとありました。3人もの子供が短期間に亡くなるという、現代人のメンタルでは仕事など出来る状態とは思えぬ中、貞永元年(1232)には武家最初の成文法となる御成敗式目を制定します。政務に徹していた泰時の心痛が伝わってくるようなスケジュールです。

小菅ヶ谷殿中興と云われる證菩提寺

泰時永眠


仁治三年(1242)6月15日、泰時がこの世を去ります。享年60歳でした。常楽寺に泰時の墓と伝わる石塔が残されています。朝比奈切通に関して著書・資料などでよく引用されている「前武州(泰時)がその場に臨んで監督された」という『吾妻鏡』の記事は仁治二年(1241)の出来事で、亡くなる一年前のことです。泰時は乗っていた馬で土石を運んでいたそうです。このことからも、働き者泰時は多分亡くなる直前まで政務を執り行っていたのでしょう。西国に対する関東の立場と北条氏政権を磐石なものとした偉大な功績を残しこの世を去ります。

常楽寺にある泰時墓

泰時の吾妻鏡エピソード


場面は和田合戦が終了した後の飲み会?もしくは祝勝会のような一場面です。泰時がその場にいる皆に話します。(吉川弘文館『現代語訳 吾妻鏡』から引用)

「飲酒は永く断とうと思う。その理由は、去る一日の夜、酒を酌み交わす会があった。翌日明け方に義盛が襲ってきたとき、無理に甲冑を着て騎馬したものの、 二日酔いによりもうろうとしていたので、今後は酒を断つと誓った。何度も戦った後、喉を潤すために水を求めたところ、武蔵国の住人の葛西六郎が小筒と盃を取り添えて勧めた。 その時になって以前の心はたちまち変わってこれを飲んだ。人の性はその時々で定まらない。よくないことだ。但し今後はそれでも深酒を好まないようにする。」

泰時は北条氏一門の中でも特に崇拝されていたためか、吾妻鏡では良いところしか記されていません。しかしこの箇所だけは、イザという時のために「今後は酒を断つ」と誓っておきながら「思わず飲んじゃった」という、ちょっとお茶目で親近感をおぼえる一場面が伝わってきます。とらえ方は人それぞれだとは思いますが、「水が欲しいって言ったら、六郎の奴が酒を持ってきやがってよ~、思わず飲んじゃったよ(笑)」なんて皆と笑いながら話していたのではないかと私は想像しました。

鎌倉幕府終焉の地 泰時が開基と伝わる東勝寺跡



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