2014年3月4日火曜日

岩殿寺


山号寺号 海雲山(海前山)岩殿寺
建立   養老四年(720)頃
開山   徳道 行基
開基   -



岩殿寺縁起


寺伝によれば、聖武天皇の勅願により奈良の長谷寺からこの地に下向した徳道上人が開山と云われています。海が見渡せる事から山を海前と名付け、岩窟が自然の殿堂のようだったことから岩殿寺(がんでんじ)と号したと云われています。山号はその後、海前から海雲に変わっています。また、この時代に開創された社寺が口を揃えて云う決まり文句ですが、ここでも行基がお寺の開山に関わっているそうです。

本堂

正暦元年(991)に花山法王が訪れ、導師となり百僧法要御供養を行った他、承安四年(1174)には後白河法皇が訪れ、岩殿寺を坂東三十三ヶ所二番の霊場と定めたとありました。鎌倉時代後期ならまだしも、当時の天皇が関東に来たんでしょうか?。ちょっと一概には信じられませんが、私の勉強不足かもしれません。


岩殿寺境内


山門をくぐったすぐ左手に本堂などの建物があります。そこから杉本寺にあるような長い階段を登って観音堂を目指します。丘陵斜面に平場を造成しているので、ひな壇状地形となっており、それぞれの建物に段差が生じる面白い境内です。長めの階段を登り終えると、観音堂がある平場となり遠景が望めます。思ったより高い場所まで来たことが実感できます。下の画像では確かめづらいかもしれませんが、逗子の海が少しだけ見えます。海前山という山号の由来が何となく伝わってくるようです。

観音堂平場からの景色

観音堂平場


階段を登りきった山腹の平場に観音堂があります。棟札によると、享保十三年(1728)に時の住職が勧進により再建したもので、小規模ながらも中世以来の伝統的な密教本堂形式をとりつつ、細部の構造は18世紀前半の特徴をよく反映しているものだとありました。

観音堂

観音堂の他にも熊野権現社・鏡花の池・蛇や蔵・奥の院岩殿観音などがあります。寺伝にあった「岩窟が自然の殿堂のようであった」という光景を期待して岩殿寺に訪れましたが、残念なことに、蛇や蔵や奥の院といった「岩窟」だったらしきものは、コンクリートで舗装されていました。苦労して階段を登って来たこともあってか、ガックリ感が倍増です。逗子市観光協会のHPにあった「行基菩薩が十一面観音の尊像を岩に彫った」というものも見てみたかったと思いましたが、鎌倉地方の地質ではそんな昔のレリーフは残らないでしょうか。

蛇や蔵
奥の院岩殿観音

丘陵の尾根道が遊歩道として整備されていて、少しだけ歩くことができます。岩殿寺は坂東三十三観音霊場第二番札所なので、それに関連した建物や石造物が尾根上にありました。また、中世のものと思われる墓塔がたくさん並んでいます。

山腹平場から尾根に通じる道
石塔群

源氏一族の参詣


岩殿寺の記事が『吾妻鏡』にいくつか記されています。文治三年(1187)には当時10歳の大姫が参詣、建久三年(1192)には源頼朝が三浦義澄・義連らを引き連れて訪れています。そして承元三年(1209)には、実朝が神嶽(神武寺)と岩殿寺に参詣したという記事がみえます。寺伝によれば、頼朝が蛭ヶ児島にいた頃、文覚が当時の本尊を厚く信仰し、夢に現れてお告げを受けていたとありました。石橋山合戦の際、観世音が船人となって頼朝を房州洲崎に渡してくれたので、御報恩のため、頼朝は御来印を岩殿寺に下賜されたんだそうです。


岩殿寺は、逗子市といっても鎌倉寄りに所在しているので、アクセスできる交通機関に乏しく立地条件が微妙です。しかも谷戸の最奥にあります。往時は山奥の霊験の場といった雰囲気だったのかもしれません。向かう途中に庚申塔があったので、横須賀線と並行する道が昔からある古道だったようです。


坂東三十三ヶ所観音霊場


奈良時代、道徳上人が西国三十三ヶ所観音霊場札所めぐり始め、平安時代に花山法皇がその札所めぐりを広めたと云われています。観音菩薩が33の姿で人々を救うということから、鎌倉時代中頃から坂東三十三ヶ所観音霊場札所めぐりが始まりました。坂東の第一番が杉本寺、第二番がここ岩殿寺、第三番が安養院、第四番が長谷寺となります。それ以降は鎌倉外となります。




より大きな地図で 神武寺 を表示

探索期間 2013年5月
記事作成 2014年3月4日


□坂東三十三ヶ所観音霊場 関連記事

杉本寺

奈良時代に創建された鎌倉最古の天台宗のお寺

□逗子地方 関連記事

神武寺

神之嶽と呼ばれた修験の場だった神域の地

神武寺石切り場跡

神武寺及び周辺の石切り場跡を探る

神武寺やぐら

歴史的価値の高い弥勒やぐらに、曰くつきのやぐらなどを紹介

神武寺~鷹取山ハイキングコース

見晴らしの良さに磨崖仏など見所満載の鷹取山