2014年2月7日金曜日

天秀尼と東慶寺


天秀尼


東慶寺の歴史を語るうえで欠かせないのが、第二十世住持の天秀尼(てんしゅうに)と云われています。彼女は豊臣秀頼の娘で、秀頼の正室で知られる千姫の子ではなく、成田五兵衛助直の娘が母と云われています。元和元年(1615)大阪の陣により、豊臣家が滅亡したため、7歳の時に徳川家康の命で東慶寺に入山し尼となります。徳川方に身柄を引き渡された際、千姫が養母になったことから、東慶寺への入山を条件に助命されたとも云われています。千姫は天寿院とも呼ばれ、徳川家康の孫娘で、天秀尼の後ろ盾として、東慶寺にも縁のある女性です。天秀尼入寺の際のエピソードとして、家康が「何ぞ願いの筋あらば心おきなく仰上らるべし」と言ったのに対し、天秀尼は「尼であるから別に望みもないが、開山よりの寺法断絶なく、永く相立てば、これにすぎた願いはない」と申し立てたと云われています。



東慶寺第二十世住持


寛永十九年(1642)33歳となった天秀尼が、東慶寺の住持となります。天寿院千姫という強力なバックボーンを持つ彼女が、江戸城に登城する際、大名行列でさえ道を譲ったと云われています。台徳院殿(徳川秀忠)の御孫姫君という破格の扱いだったようです。また、東慶寺の江戸中期の寺領は、石高にして約500石だったそうです。鎌倉には当時100以上の社寺があったと云われていますが、これはその鎌倉にあった社寺領を全て合計した10%にあたり、鶴岡八幡宮・円覚寺に次ぐ寺領となります。なんと建長寺を凌いでいます。これもひとえに天秀尼や千姫などの豊臣家関係者らが尽力した結果でしょうか。



会津騒動


寛永二十年(1643)天秀尼が住持となってまもなく、東慶寺は会津騒動という事件に巻き込まれます。
賤ヶ岳七本槍の一人で、加藤嘉明を父とする会津四十万石の大名加藤明成は、あまり評判の良くないお殿様だったようで、これに老臣の堀主水が、日頃から忠諫していましたが、明成は耳を貸さず、不肖非理なお殿様として君臨していました。こうして堀主水と明成は、しまいには主従不和となり、堀主水は出府して主君を訴え、自らは高野山に入り、妻子を東慶寺に預けました。これに怒り狂った加藤明成は、堀主水を捕らえて殺害、更には東慶寺に兵を向けて堀主水の妻子を召し捕ろうとします。この明成の傍若無人な振る舞いに、天秀尼は応じませんでした。さらに「古来よりこの寺に来る者いかなる罪人も出すことなし、無道至極なり、明成を破却させるか、この寺を退転させるか、二つに一つぞ」と千姫に強く訴えます。

天秀尼のセリフは『松ヶ岡東慶寺誌』(以下東慶寺誌)に記されていた意訳をそのまま引用しています。「二つに一つぞ」と、武士顔負けの迫力が伝わってくるようです。その後、加藤明成は幕府に領地を没収されてしまい、40万石が1万石の大名へと没落しています。当時の江戸幕府が外様大名に圧力をかけていたのは確かですが、天秀尼がこのように働きかけ、千姫が後ろから手を回したのは明らかでしょうか。ちなみに、堀主水の妻は、天秀尼より寿林という法名を授かり、会津の故郷に帰り天寿をまっとうしたそうです。


東慶寺は治外法権の聖所


上記した天秀尼の「古来よりこの寺に来る者いかなる罪人も出すことなし」というセリフからもわかるように、とりあえず東慶寺に一旦入ってしまえば、それが犯罪者であっても、幕府や大名などの権威でさえ勝手な手出しはできなかったことが伝わってきます。イギリス商館長リチャード・コックスは、元和二年(1616)当時の日記に、「秀頼様の幼い娘がこの僧院で尼となってわずかにその生命を保っている。ここは聖所であって、法令の力でも彼女を連れ出すことはできないからである」とあります。台徳院殿(秀忠)の菩提寺増上寺でさえ、特権を認められていないのに、東慶寺には治外法権という特権が与えられていたことが記されています。


学者で太宰春台の享保二年(1717)の『湘中紀行』に、「松岡は淫婦の業林」と記されています。東慶寺を誹謗中傷しているのは明らかです。東慶寺誌では、男子禁制の札が面白くなかったから(こんなことを言った)とあります。こんな寺一つ官の力をもってしても潰せないのかと嘆いていたそうです。この太宰がどうしてここまで東慶寺を目の仇にするのかわかりませんが、とにかくこの記述からも「治外法権の聖所」だった東慶寺の姿が伝わってきます。



天秀尼寂


正保二年(1645)2月7日、天秀尼は37歳でこの世を去ります。東慶寺には彼女の墓塔が残されています。その隣には、台月院殿明玉宗鑑大姉という法名の、大阪城落城以来、天秀尼に付き添ってきた女性の墓があります。こちらは塔身に天秀尼の命日などが刻まれています。一方で、天秀尼養母の千姫は、大阪城落城後、本多忠刻と再婚しますが、夫に先立たれた後、江戸に戻り、城内竹橋の天寿院に住んでいました。もう一つの縁切寺と云われる上州新田群世良田徳川の満徳寺にも彼女が関係しているようです。こちらは寛文六年(1662)に永眠。享年70歳でした。



天秀尼萌え


天秀尼の祖母は、浅井三姉妹の長姉で知られる淀殿です。ということは、織田信長の妹で、戦国時代一の美女と云われたお市の方が曾祖母となります。DNAの観点からは、天秀尼は美人だった可能性も考えられます。彼女の墓塔裏側には、故人の情報が色々と刻まれていますが、中でも「黄梅院に参禅した」とあります。天秀尼が近くの円覚寺に足を運んでいたようです。この美人尼と同室した当時のお坊さん達はどう思ったでしょう。ちょっと刺激が強すぎたかもしれません。

黄梅院



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探索期間 2012年5月~2013年7月
記事作成 2014年2月7日

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