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永福寺跡

2014/02/22

鎌倉市 廃寺

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永福寺跡


永福寺は、源頼朝が滅ぼした木曽義仲・平家・奥州藤原氏などの数万の怨霊を鎮めることを目的に建立されました。のちの応永十二年(1405)の火災による焼失以後、再建されなかったと考えられています。往時の中心伽藍部分は空地として残されており、史跡公園として整備されています。

基本情報

名称:永福寺跡
住所:神奈川県鎌倉市二階堂
現状:史跡公園


永福寺伽藍


『吾妻鏡』によれば、文治五年(1189)の奥州合戦の後、建久二年(1191)に頼朝自ら土地の選定を行い、伽藍建立の願を立てています。建久三年(1192)に工事が着工し、同年11月に、大僧正公顕を迎えて開堂供養が行われています。『鎌倉市史』に「三堂建立は三年に渡っている」とあったので、中心伽藍の完成は建久五年(1194)辺りでしょうか。

下画像は、現地案内板にあった復元CG図です。東を正面にした全長が、南北130mに及ぶ伽藍で、前面には南北100m以上ある苑池が造られていました。画像の手前から、阿弥陀堂・二階堂・薬師堂となっています。

永福寺復元CG図

二階堂の範囲


『鎌倉市史 社寺編』に「四ツ石・三堂・亀ヶ淵・西ヶ谷の辺り一帯が境内であったと思われる」とあります。近くに真言院・松本坊・石井御坊・法輪坊などの供僧の坊がありました。

また、鎌倉市教育委員会の調査報告書によれば、永福寺跡から奥に行った亀ヶ淵や西ヶ谷の辺りが別当坊・僧坊だったと推定しています。ですから、現在、公園として残されている空地だけでなく、この辺り一帯が永福寺に関連する土地柄だったようです。

下地図画像に記した東光寺とは、現在の鎌倉宮です。東光寺も永福寺の一伽藍と考えられるそうなので、全てを含めると、とてつもない広さです。往時では、二階堂という地名イコールそれは永福寺を指すものでしたが、その規模を知ると納得できるでしょうか。

国土地理院の地理院地図
①永福寺 ②東光寺 ③別当坊

さらに、建仁二年(1202)には、多宝塔の供養が行われ、導師に寿福寺の栄西が、建保四年(1226)の供養の導師には退耕行勇が迎えられたなどと資料にみられるので、三堂以外にも色々な建物が所在していたことがわかります。

モデルとなった大長寿院


『吾妻鏡』文治五年(1189)12月9日条より(吉川弘文館現代語訳吾妻鏡第4巻から引用。)
「今日、永福寺(造営)の事始めがあった。奥州で(藤原)泰衡が管理した寺院をご覧になり、この寺の建立を企てられたもので、その心の内は、一つには数万の怨霊をなぐさめ、一つには三有の苦しみを救うためである。そもそもかの(泰衡が管理した)緒寺が軒を並べていた中で、大長寿院と称する二階建ての大堂があり、ただこれを模されたもので、別称として二階堂と号することになった。」



吾妻鏡が永福寺は平泉中尊寺にあった二階建ての大長寿院を模したものだと記しています。平泉の豪華絢爛な伽藍を有する寺院に永福寺が影響を受けたことは間違いないのでしょう。

鎌倉永福寺のモデルは無量光院

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中世の旅行者


貞応二年(1223)の『海道記』の著者、仁治三年(1242)の『東関紀行』の著者などが鎌倉に訪れた際、永福寺に立ち寄っています。たぶん「鎌倉に行ったら立ち寄るべきスポット」として当時から認識されていたのでしょう。また、正応二年(1289 )には、『とはずがたり』の著者で知られる後深草院二条も二階堂(永福寺)に訪れています。

後深草院二条と鎌倉

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永福寺城?


永福寺は、合戦時には陣地として使用されていることが文献・資料からわかっています。宝治合戦での三浦光村、元弘の乱では千寿王(足利義詮)、建武二年(1335)には足利尊氏が陣を張っています。

『吾妻鏡』における宝治合戦の記述では、三浦光村が、永福寺で八十余騎を従え、使者を兄の泰村のもとに向かわせ「永福寺は、優れた城郭です。ここで共に討手を待ちましょう。」と言っています。確かに二階堂は、鎌倉城の最北部分を背に出来るので、非常に有効な要害の地と成り得るのかもしれません。

史跡公園としての整備化


それでは、永福寺跡が史跡公園として整備される段階を個人で確認できた範囲でご紹介します。2011年当時は空地にそれらしき工事用車両などが置かれていた状態でした。2012年には礎石が運び込まれ、2013年には永福寺中心伽藍の礎石部の整備、2015年には池部分の小石が敷き詰めれれていました。

2012年 礎石が到着
2012年 礎石を並べているようです
2013年 基壇完成?
2015年 池部分の小石を敷きつめているようです


残念なことに、礎石は本物ではなく、発掘調査から実際に出土したものに似せた石を運んできたそうです。本物は地中に埋まっているそうです。石には番号がふってあったので、絶対に出土品か何かの貴重なものだと思っていましたが、違ったようでした。但し往時の苑池部分となる場所に石組みがみられますが、こちらはどうやら本物のようです。

苑池石組み

しかしその後、この石組みも土で覆われていました。本物は一切目に触れさせない方針のようです。イタズラされる危険性と風化を防ぐための策かと思われます。

2015年4月 苑池石組みが隠されていた・・何で?

2017年には池に水が張られ、案内板が設置されていました。これで完成だと思われます。関係者の皆さまお疲れさまでした。ちなみに建物は今後も復元されないそうです。

2017年12月 池に水が張られる
2017年12月 看板が設置される

永福寺裏山


永福寺伽藍背後の丘陵は、ちょっとした遊歩道として整備されています。これといった造作は見当たりませんが、石祠があったり、伽藍跡を上から眺められる平場が施されています。

丘陵中腹にある平場

丘陵部からそのまま尾根道が続いています。こちらを進むと覚園寺総門跡口から連なる天園ハイキングコースにアクセスすることができます。

永福寺遊歩道尾根

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