2014年2月3日月曜日

寿福寺


山号寺号 亀谷山寿福金剛禅寺
建立   正治二年(1200)頃
開山   明庵栄西
開基   北条政子



寿福寺縁起


寿福寺は、正治二年(1200)北条政子の祈願によって、亀ヶ谷の地を栄西に寄進し、寺院建立となりました。『吾妻鏡』正治二年(1200)7月15日条に、佐々木定綱が調進した十六羅漢図の開眼供養が、寿福寺で行われ、当寺長老栄西が導師を務めるという記事がみられますが、「この頃をもって一応の落成とみてよいのではないか」と『鎌倉市史 社寺編』にありました。というのも、『吾妻鏡』健仁二年(1202)の記事に、寿福寺を「栄西律師亀谷寺」と記していることから、正治二年(1200)開創とは一概に言い切れない事情があるようです。また、亀ヶ谷の名は、鶴岡の対語として名付けられたのだろうと同じく市史にありました。



寿福寺旧蹟


寿福寺が、源義朝の邸跡であることは吾妻鏡にも記されていますが、さらに創建当時の寿福寺は、沼浜にもあった義朝旧邸の資材で建立されています。寿福寺建立に際し、資材を新調する余裕がなかったのか、義朝邸資材を使用することに何か意味があるのか、とらえ方が難しいところです。治承四年(1180)10月6日、源頼朝が鎌倉入りした翌日に、頼朝はこの地に邸を構えようとしましたが、岡崎義実が義朝の菩提を弔うために寺を建てており、さらに土地も狭かったので、計画を変更したとあります。

参道の石積み
ただの石材ではなく、なんか石塔らしきものがまぎれている


明庵栄西


開山の栄西(えいさい)は、台密の葉上(ようじょう)流の祖と仰がれる高僧で、臨済宗を初めて伝えた人物として周知されています。備中の加陽(かや)氏の出身で、13歳以後、比叡山にて学び、生涯に二度も宋に渡っています。ちなみに台密とは天台密教を指します。上記したように、臨済宗開祖として知られていますが、それ以前は天台宗の僧侶だったようです。台密には13の流派があり、栄西の葉上流はその一つで建仁寺流とも呼ばれています。また、喫茶の習慣をはじめて日本に伝えた人です。栄西の鎌倉下向は、頼朝が亡くなった正治元年(1199)の59歳の時で、僧侶として既に名を馳せていることからも、北条政子などが丁重にお迎えしている雰囲気が吾妻鏡からも伝わってきます。『吾妻鏡』によれば、建保三年(1215)6月15日に鎌倉で亡くなっています。


寿福関係者


『吾妻鏡』に記された主な寿福寺の仏事では、元久六年(1195)の御台所政子の祖父母追善、建保元年(1213)の和田義盛以下戦死者供養などがみられます。また、将軍実朝が度々参詣していることが、吾妻鏡にみえますが、特に栄西の弟子で退耕行勇を導師とする仏事供養に実朝は赴いています。退耕行勇は、鶴岡八幡宮の宮寺供僧に、永福寺大慈寺別当を務めており、東勝寺浄妙寺常楽寺の開山としても知られています。実朝や北条氏から深く帰依されていたようです。また、建長寺開山の蘭渓道隆が、五世長老として住していました。

寿福寺の地は、上記したように、頼朝の鎌倉入府時、岡崎義実がこの地に義朝の菩提を弔うために寺を建てていました。その後、岡崎義実の子で土屋次郎義清の所有地となっていたもようです。和田合戦に和田方として参戦した土屋義清は、合戦中「神の鏑」に射られ絶命しています。寿福寺に葬られたと吾妻鏡に記されていました。また、金沢貞顕書状に「亀ヶ谷の小路に土屋入道宿所がある」と記されているそうです。土屋義清の子孫で円月という名の僧侶が、寿福寺付近に住んでいたことがわかっています。どうやら土屋義清の子孫は絶えていなかったようです。



絵かきやぐら


境内奥にある墓地には、丘陵壁面いっぱいにやぐらが施されています。中でも、北条政子源実朝の墓と云われるやぐらがありますが、「から草やぐら」「絵かきやぐら」などと呼称されています。特別に施されたものなのかわかりませんが、とにかく、やぐら内部の様相が少し他のものとは異なっています。とてもキレイで、ここでしか見られないものだと思います。

伝北条政子墓
伝源実朝墓やぐら内部
「から草やぐら」「絵かきやぐら」と云われる所以が何となく伝わるでしょうか


寿福寺興亡


貞応二年(1223)の『海道記』の著者は、鎌倉に訪れた際、鶴岡八幡宮・勝長寿院・大慈寺・永福寺に立ち寄っています。仁治三年(1242)の『東関紀行』の著者もだいたい同じく、鶴岡八幡宮・勝長寿院・永福寺・大仏などに訪れています。鎌倉五山第三位として知られる寿福寺ですが、この頃ではまだまだ存在感が薄かったようです。誰も訪れていませんね。やはり当初は、栄西個人のお寺のような形でスタートしたのかもしれません。、禅宗が盛んになった鎌倉後期から南北朝期にかけて最も隆盛したもようです。その後、寛永十年(1632)の『鎌倉巡礼紀』には、「逍遙院も今はなし、逍遙池はあやにく水かれて草あをし」と寿福寺の廃れた様子が記されています。ちなみに逍遙院とは開山栄西の塔頭のことです。

もしかして鎌倉巡礼紀に記されていた逍遙池?

あの威厳ある門構えと一直線に伸びる参道に、最初に訪れた際「さすが鎌倉五山第三位のお寺」と思いましたが、それ以外見る所もなく、仏殿にも近寄れないので「あれっ?」と思ったのは私だけではないと思います。五山の一位・二位のボリューム感が半端ないこともありますが、五山三位をあまり意識し過ぎると、少し肩透かしをくらう印象は否めません。長い歴史の中で盛衰を繰り返してきた鎌倉寺社にあって、寿福寺は衰えた後にあまり立ち直れなかったのかもしれません。寿福寺の門前には寛文八年(1668)の庚申塔が置かれています。近世までは、寿福寺の前に川が流れていて、橋がかけられていました。鎌倉十橋の一つで勝ノ橋と云われていたそうです。

庚申塔



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探索期間 2011年8月~2013年7月
記事作成 2014年2月3日


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