2014年1月6日月曜日

古墳時代横穴墓


古墳時代末期横穴墓


古墳時代横穴墓は、古墳時代後期から奈良時代にかけて営まれた権力者のお墓です。丘陵の斜面や崖面などに横方向に穴を掘って墓室としたものであるため横穴墓と呼称されています。そして、鎌倉地方に群集するやぐらと呼ばれる中世のお墓もややこしい事に横穴タイプです。古墳時代横穴墓は、このやぐらの原型・モデルになったと考えられています。ですから鎌倉の歴史を知るうえでも欠かせない貴重な遺跡といえるのでしょう。



横穴墓の伝来


九州地方の北部で5世紀の横穴墓が発見されています。その後、6世紀中頃に近畿・中部地方、6世紀後半に関東・東北へと伝播してきたことが発掘調査でわかっています。関東の主な分布として、大田区・世田谷区に相模地方を含む南武蔵地域、吉見百穴で有名な比企郡などの北武蔵地域、その他に房総半島に常陸などで確認されています。『鎌倉市史 考古編』では鎌倉にある横穴墓を末期横穴と呼称しているので、鎌倉地方では7世紀から8世紀にかけて盛んに営まれたものと思われます。

洗馬ヶ谷横穴墓 玄室内部
古代においてこのように半円状に掘削できる技術があったことに驚く


横穴墓からみた古代史


横穴墓の話題から少し外れますが、上述したように、横穴墓という埋葬スタイルが九州から徐々に東へと伝播してゆくこの事実からも、5世紀頃、九州に最新のトレンドを発信するコミュニティーがあったと思わざるをえません。想像を膨らませれば、皇族の祖先が当時は九州にいた、もしくは邪馬台国が九州にあったなどと考えられるのではないでしょうか。また、関東での横穴墓造営時期からも、少なくとも6世紀後半には中央集権に関東が支配されていたとも考えられるでしょう。そうすると、神話にあるヤマトタケルの東征は、この横穴墓伝播期だけから推測するに、5世紀~6世紀頃でしょうか。もちろん神話のうえではもっと昔の話しになりますが、個人的には何となく時期的に合点がいくように思えます。それから面白い事に、関東地方において突出して古墳が集中する群馬県では横穴墓がみられないという謎めいた現象がみられるそうです。

横穴墓の構造 左が断面図 右が平面図 



横穴墓の形状


形状には、アーチ型・ドーム型・切妻型(家型)などがあります。鎌倉周辺で私が見たもののほとんどはアーチ型に属するものと思われます。『鎌倉市史 考古編』によれば「奥で幅高さとも最大で入口に向かって幅と高さが減ずるもの」と説明しています。やぐらにもアーチ型や切妻型がありますが、その場合、この横穴墓を転用している可能性が高いようです。原則、四角い形状のものが中世につくられたやぐらだと思って間違いないでしょう。

典型的なアーチ型 佐竹やぐら
やぐらとして周知されているが、古墳時代横穴墓を転用したものと思われる

定泉寺にある田谷の洞窟に施されたドーム状の部屋天井部
元々は横穴墓だったとも云われているので、ドーム状の横穴墓がモデルになったのかもしれない


横穴墓に埋葬された人達


3世紀から7世紀頃まで営まれた円墳・古墳などは、その規模からも一国の権力者レベルが葬られたと考えられます。一方で横穴墓はそうした円墳・古墳などと比べると、造営にかかる労力が激減します。また同じ地域にいくつもつくられていることから埋葬されたのは群、もしくは郷クラスの長などと考えられます。やぐらには武士と僧侶、それから商工業者などが葬られていました。時代と共に手厚く葬られる層が下に下に広がってきています。鎌倉時代ではそれでもまだまだ一般庶民は山・海・川などに棄てられていたそうです。また、やぐらは古墳時代横穴墓をモデルにしたと上記しましたが、その横穴墓自体も、円墳・古墳をモデル、もしくは簡素化したものと考えられます。要は玄室を覆うものが時代と共に小さくなっている傾向がみられます。

大田区田園調布にある多摩川台古墳群の解説版
ここでは4世紀から7世紀後半にかけて古墳が造営されている 横穴墓とも時期が近接していて興味深い


横穴墓と集落


市史では、「新宿横穴群(披露山)陣鐘山横穴群(極楽寺)など海岸沿いの古道に墳墓群のあることは古道沿いに新文化をとり入れた村落が発達したことを語るものであろう」とありました。市史の云うとおり、お墓があれば近くに集落があると考えるのが妥当かと思われますが、実は、東京の発掘調査では、横穴墓が集中する大田区・世田谷区において横穴墓付近に集落跡が発見されていません。これが何を意味するのか具体的にわかっていませんが、もしかしたら古代の人達は、現在の我々と同様に、もしくはそれ以上に墓域と生活圏を隔てていたとも考えられるのかもしれません。

披露山公園から眺めた長柄桜山古墳群
向こうに見える丘陵全体が古墳 どんだけ凄い権力者だったのだろう


鎌倉の横穴墓


鎌倉及び周辺では、極楽寺地区の陣鐘山や深沢などで比較的大規模な横穴墓群があったようです。現在ではそれらほとんどが宅地造成などで破壊され現存していません。鎌倉市街地では東御門などの大倉地区、そして隣接する祇園山ハイキングコースのある丘陵部などで個人的に確認しています。その他、有名な洗馬ヶ谷横穴墓など玉縄・村岡といった大船・藤沢方面でも横穴墓が現在でも確認することができます。上記しましたが、鎌倉では中世にやぐらとして転用されているものも多いため、やぐらとして認知されているものが実は古墳時代の横穴墓だったという例も多くみられます。

上郷深田やぐら群 
開口部が2m以上もある迫力の横穴墓 こちらもやぐらとして転用されている

鎌倉地方及び周辺では、玄室内にある棺座(遺体を安置する場)が底面より高くなっているものを見かけます。これは鎌倉地方、もしくは神奈川県方面にみられる特色なんだそうです。

神光寺横穴墓群 高棺座が施されている

下部のGoogle Mapに印したマーカーは個人的に確認した横穴墓です。何度も言いますが、鎌倉ではやぐらとして転用されているものも多くあるので、どこまでを横穴墓として認識するべきかという問題もあります。下地図では私のような素人でも横穴墓だとわかる形状のもの、もしくは市史などで横穴墓だと記されていたものを印してあります。面白いことに、光則寺や龍口寺などの日蓮宗のお寺にある横穴はほぼ古墳時代横穴墓なんだそうです。そう考えると、安国論寺妙法寺などにもあるあの大きめな窟も横穴墓なのかもしれません。また、東御門にあるものは完全に私有地内です。地主さんの許可が要ります。



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