2014年1月4日土曜日

泉ヶ谷 ~浄光明寺敷地絵図


泉ヶ谷にある浄光明寺には、鎌倉幕府滅亡直後に描かれた絵図が残されています。絵図は、浄光明寺の伽藍構成だけでなく、泉ヶ谷の谷戸全体を伝える貴重な情報が凝縮されており、隣接する多宝寺東林寺岩王寺などのお寺の他、武家邸の詳細な位置まで記されています。ただ、私はそのコピーを見ましたが、原画の状態が良くないためかほとんど何がなんだかよくわからない状態でした。そこで今回の記事では大三輪龍彦先生著『浄光明寺敷地絵図』を参考に下地図画像を作成しています。これほど鎌倉武士の詳細な邸位置情報を伝える資料を他では見たことがありません。北条氏ファンにはたまらない情報ではないでしょうか。

浄光明寺敷地絵図


下地図画像は泉ヶ谷及び周辺エリアです。このように往時は多くのお寺が泉ヶ谷とその周辺にありました。現在残っているお寺は浄光明寺だけです。番号は浄光明寺敷地絵図に描かれた往時の泉ヶ谷にあったそれぞれの邸位置です。

Google Map 泉ヶ谷
①守時跡 ②御中跡 ③右馬権介跡 ④上野守跡 ⑤英比三郎右衛門入道跡 ⑥土州跡 ⑦刑部跡 ⑧高坂

①守時跡=赤橋守時 ②御中跡=得宗家 ③右馬権介跡=大仏高直 ④上野守跡=大仏直俊 ⑤英比三郎右衛門入道跡=一般御家人か北条氏従者 ⑥土州跡=大仏宗泰 ⑦刑部跡=摂津刑部権大輔親鑑 ⑧高坂=武蔵国の豪族高坂氏

上記したように幕府滅亡後の情報であるため既に「~跡」と記されています。⑧の高坂氏だけが「~跡」と記されていないのは、どうやら足利側に寝返り邸や身分の保守に成功したもようです。

重時流北条氏の邸地という訳でもなかった泉ヶ谷?


泉ヶ谷といえば、浄光明寺多宝寺など重時流北条氏の面々がお寺の開基として知られているため、赤橋普恩寺などの重時流派の一族で谷戸内が埋め尽くされているのかと思いきや、意外に意外で時房流大仏家が多くみられます。何故でしょう。この何とも言えない違和感は大三輪先生の著書でも解決されていないので未だモヤモヤしたままのようです。さらには得宗家の邸地までありますね。ちなみに金沢貞顕の邸が窟堂前、上画像でいうところの松源寺付近にあったと云われています。これらのことからも若宮大路の西側は結構な大物が軒を連ねています。

泉の井 泉ヶ谷にある鎌倉十井の一つ 

泉ヶ谷の守時邸は別業か?


そもそも赤橋家の赤橋とは鶴岡八幡宮太鼓橋(当時は朱塗りだった)付近に邸があったためそう呼ばれたと云われています。つまり若宮大路沿いに赤橋家の邸があったはずなので、もしかしたら泉ヶ谷の守時邸は別業、つまり別邸の可能性も考えられます。ただ、金沢流北条氏顕時が「赤橋殿と呼ばれていた」と金沢文庫発行の著書にあったので、赤橋邸とはその都度得宗家に最も近づいた人物が拝領するのか、それともいくつもあるのか、などなど個人的には疑問が残るところです。ちなみに下画像の八幡宮入口付近に鎌倉彫のお店や駐車場があるのを場所が場所だけに覚えている方も多いと思いますが、ここにはその顕時時房が邸を構えていたと鎌倉市教育委員会の調査報告書にありました。

鶴岡八幡宮前の太鼓橋付近

刑部から繋がる泉ヶ谷周辺史跡


地図画像⑦の摂津刑部権大輔親鑑という人物ですが、どうやら中原氏の一族であるようです。だいぶ時代が遡りますが、大江広元や頼朝の次女で乙姫の乳父で知られる中原親能などとも血縁関係がみられます。地図画像の亀ヶ谷辻にある岩舟地蔵堂付近にその中原親能の邸があったようです。また志一稲荷付近に大江広元毛利李光の墓と伝わるやぐらがあります。中原氏の一族がこの辺りに居たことからもこちらは本物の可能性が高いとも考えられます。また、大江広元という西国とのパイプを持つ一族の末裔である刑部がこの地に邸を構えていたことからも、歌の先生でお馴染みの冷泉為相が浄光明寺付近に住んでいたのも何か関係するのかもしれません。さらに、中原氏は相馬氏と姻戚関係を結んでいます。浄光明寺裏手に相馬師常墓やぐら群がありますが、これは相馬天王社跡です。こちらも何か関係するのか、それとも偶然なのか、興味深いところです。ちなみに刑部は元弘三年(1333)の幕府滅亡時、北条氏と共に東勝寺で自刃しています。

浄光明寺裏手にある相馬師常の墓と伝わるやぐら

浄光明寺旧境内


浄光明寺塔頭には、玉泉院・慈恩院・華蔵院・慈光院・東南院・地蔵院が描かれています。『新編鎌倉志』の浄光明寺項挿絵を見る限り東南院と地蔵院以外は描かれているので、鎌倉志が編算された貞亨二年(1685)頃には未だそれら塔頭があったようです。また、絵図に描かれている経塚位置から実際にも経塚が発掘されています。下画像はその経塚を収めていた外容器で、阿弥陀堂内に安置されています。それからもうひとつ、阿弥陀堂の木材が穴だらけで、光が差し込んでいるのが気になりましたが、阿弥陀堂は永福寺の資材を使って江戸期に再建されているそうです。

円内にあるのがその経塚外容器

下画像は浄光明寺の記事でタイトル画像として使用したものです。②の阿弥陀堂が①の客殿より一段高い場所に位置し、更にその上に③の地蔵院跡、そしてそのまた上は浄光明寺裏山の尾根となっており、藤谷殿(冷泉為相)宝篋印塔が安置されています。鎌倉寺社特有の段状に平場が連なる土地造成が、画像を見てもわかるとおり、こうして旧態のまま保持されています。そして浄光明寺敷地絵図からも、このひな壇状地形が鎌倉期からのものであることがわかりました。このひな壇状地形に700年以上もの歴史が刻まれています。そう考えると凄い景観ですね。

①客殿 ②阿弥陀堂 ③地蔵院跡 ④藤谷殿墓



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記事作成  2014年1月日


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