2014年1月2日木曜日

相馬師常墓やぐら群


浄光明寺の西側丘陵部に大よそ13基のやぐらが現存しています。これら相馬師常(そうまもろつね)墓やぐら群と呼称されています。名称からもどうやら鎌倉時代草創期の有力御家人に関連する遺跡のようです。

Google Map 泉ヶ谷

八坂大神は相馬天王


鎌倉には「誰々の墓」と云われるものが多くありますが、色々調べていくと、その大多数がかなり不確かなものである事が分かってしまいます。そこで、今回取り上げるやぐらはどのようにして相馬師常の墓と伝わってきたのでしょう。鎌倉市教育委員会の『亀ヶ谷坂周辺詳細分布調査報告書』(以下調査報告書)によると、寿福寺に隣接する八坂大神が当時は相馬天王とも呼ばれ、ここ相馬師常墓やぐら群のある場所に往時は所在し、天和年間(1681~1684)に現在地に移転したとありました。という事で、このやぐらは相馬氏に関連する社がここにあったのだから、相馬氏の祖である師常の墓だろうといった昔の人達の推測で、このような伝承が残されてきたのかもしれません。

八坂大神(相馬天王)

相馬師常


相馬師常は、千葉常胤の次男で戦国大名としても登場した相馬氏の祖です。石橋山合戦の敗北後に房総半島に渡ってきた頼朝に、父と共に従軍しています。頼朝の幕府開幕を支えた有力御家人の一人です。その後、奥州合戦にも参加した功績から陸奥の行田群などを拝領しています。『吾妻鏡』にも記されていますが、師常は元久二年(1205)に正座に合掌した姿のまま亡くなったことから、多くの人が見物に来たそうです。また師常の邸もこの辺りにあったようです。

伝相馬師常墓

伝相馬師常の墓


やぐら群の中に相馬師常の墓と伝わるやぐらがあります。残念な事に上画像を見てのとおり、玄室には門が施されているため中には入れません。玄室奥壁に大きな龕が施され、切石で閉ざされており、その前面には室町期の宝篋印塔が安置されています。そしてその左隣にあるのが年代不明の一石造の五輪塔です。

伝相馬師常墓やぐら玄室

調査報告書によると「切石で閉塞された大型の龕を持つやぐらは極めて特色ある形態である」とあります。類似するやぐらとして、寿福寺の伝源実朝墓やぐら浄光明寺の網引地蔵やぐら、後述する伝千葉常胤墓やぐらが挙げられます。さらに特筆すべきは、このやぐらの龕の閉塞石が移動された形跡がないという点です。ですから、この龕には師常の遺骸、もしくは相馬天王社の神輿が納められている可能性があるようです。玄室内が荒らされていないというだけでもとてつもなく特殊な例でかつ貴重なやぐらと云えるのでしょう。そしてこちらの相馬師常墓やぐらを中心に丘陵部壁面にいくつものやぐらが確認できます。


相馬師常墓浄光明寺は同じ丘陵部に沿っています。浄光明寺の裏山からこの相馬師常やぐら群の一部を見ることもできます。浄光明寺地蔵院跡の平場奥に隋道かやぐらのような窟穴に門が取り付けられている箇所がありますが、ちょうどこちらの反対側となります。

浄光明寺地蔵院跡平場奥にある造作
上画像の反対側

随分と丘陵部壁面の形状が複雑です。浄光明寺境内と同様に石切り跡が確認できます。相馬天王社の名残りでもあるのでしょうか。

祠が安置された小さな窟穴と石切り場跡で見られる杭を打ったような造作
そのまま相馬師常墓に下りて行けるような道跡も確認できる

そしてこの一群中に千葉常胤の墓と伝わるやぐらがあります。こちらも切石で閉塞されているタイプです。相馬師常墓に比べると小ぶりです。これがあの大物御家人で千葉氏宗家の常胤の墓とは到底思えませんが・・ どうなんでしょうね。

伝千葉常胤墓

以前に相馬市に隣接する宮城県出身の千葉という苗字の女性と出会いました。「宮城なのに千葉なの?」という下らない会話をしていたのを覚えていますが、そういえばその彼女が「宮城県には千葉という苗字が多い」と言っていたのを思い出しました。その時は「へぇ~」としか思いませんでしたが、今こうして鎌倉を調べていると、それってやっぱり東北地方に所領を持ったこの相馬氏を含む千葉一族が移住したからなのかもしれないと思いました。そう考えると歴史って本当に繋がっているんだなぁと実感できますね。



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記事作成  2014年1月2日

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