2014年1月10日金曜日

後深草院二条と鎌倉


『とはずがたり』後深草院二条


とはずがたり』の著者として知られる後深草院二条は、久我大納言雅忠の娘で本名は不明です。正嘉二年(1258)の生まれで没年は伝わっていませんが、少なくとも50歳頃まで『とはずがたり』を記していた事がわかっています。『とはずがたり』の前半は著者である後深草院二条が宮中における男性遍歴をあますことなく書き記した日記文学です。後半は32歳で出家した後に日本各地へと旅に出た体験が記されています。したがって著書は、日記文学とも紀行文学ともとらえられますが、一方で『増鏡』が彼女の文章を多量に引用していることから、記録文学としても専門家から注目されています。14歳で後深草天皇の寵愛を受けながら、同時に西園寺実兼、性助法親王、亀山院などとも情事を重ねる自由奔放な彼女の行動と、『とはずがたり』における彼女の文学的表現に現代では多くの人が魅了されているようです。二条は少なくとも4人の子供を出産していますが、その子供らと親子として関わることはなかったと云われています。


後深草院二条の鎌倉下向


後深草院二条は、正応二年(1289 )32歳の時に鎌倉に訪れています。鎌倉では北条貞時の治世で、七代将軍の座を廃された惟康親王が鎌倉を追放されるちょうどその時でした。そして『とはずがたり』に記されていた鎌倉の字名を抽出してみたところ、江ノ島・極楽寺・化粧坂・荏柄・二階堂・大御堂・大蔵谷・新八幡・御所・佐介谷・若宮小路・山ノ内山荘とありました。そして下地図画像は、彼女が行ったであろう鎌倉の地を示したものです。

Google Map 後深草院二条の鎌倉での足どり

抽出した字名にある「山ノ内山荘」ですが、正確には「山ノ内という相模殿の山荘」とあります。ちょっとこの山荘位置がよく分かりません。初耳です。得宗家の別業でしょうか。明月谷にあった北条時頼の最明寺北亭を指すのかもしれないと個人的には思いましたが、もちろん確証はありません。また、新八幡(鶴岡八幡宮)・大御堂・二階堂(永福寺)と頼朝が建立した寺社全てに訪れています。二条の父で久我大納言雅忠は村上源氏なので、自分の血統と関連する源氏を祀る寺社に参詣したようです。それから鎌倉滞在中は大蔵谷と佐介に泊まっています。大蔵谷にいた小町殿という縁者から「私のところへいらっしゃい」というお誘いに「かえってわずらわしい」と二条は近くに宿をとっています。


後深草院二条の云う化粧坂?


「明くれば鎌倉へ入るに、極楽寺といふ寺へ参りてみれば、僧の振舞、都にたがはず、懐しくおぼえてみつつ、化粧坂といふ山を越えて、鎌倉の方をみれば、東山にて京を見るにはひきたがへて、階などのやうに重々に、袋の中に物を入れたるやうに住まひたる、あなものわびしとやうやう見えて、心とどまりぬべき心地もせず。 」

文章は二条が鎌倉に入ったその時を伝えたものです。「化粧坂という山を越え、鎌倉の方を眺めると、家々が階段のように幾重にも重なって、袋の中に物を入れたようだ」と伝えています。「家々が階段のように幾重にも重なって」というのは、鎌倉名物のひな壇状地形を表現しています。昔からそうだったのだろうと誰もが考える鎌倉の景観を改めて二条が証言してくれています。そして問題となるのが、「化粧坂という山を越え~」という点です。これは彼女のその後の行動からも、どうやら化粧坂ではなく極楽寺坂の間違いではないかと云われています。彼女の行動を整理すると、極楽寺に参詣後、化粧坂を超え鎌倉の街並みを眺め、由比ヶ浜に出ています。大きな鳥居があって、遠くに若宮の御社が見えると記しています。鎌倉の地理上の観点から考えれば確かに、極楽寺から極楽寺坂を下り由比ヶ浜に出たと考えるのが妥当かと思われます。「とはずがたり」は、リアルタイムで記されたものではなく、二条が49歳になった嘉元四年(1306)に執筆されたものなので、どこか記憶が曖昧になったと考えてもおかしくないのかもしれません。

極楽寺坂は近現代で掘り下げられています。成就院前が本来の切通し頂部だと『鎌倉市史 考古編』にありました。ということで下画像は上のタイトル画像でも使った極楽寺坂成就院前からの展望で、二条が見たかもしれない景色です。坂の向こうに由比ヶ浜が見える鎌倉指折りの絶景ポイントです。

極楽寺坂成就院前からの眺め

しかしながらよくよく考えると、この極楽寺坂からの景色では、二条の云う「家々が階段のように幾重にも重なって、袋の中に物を入れたよう」という景観が伝わってこないような気がします。当時とは地形なども変わっているので、現代から二条が見た景色を検証するには多少無理があるのかもしれませんが、それにしてもあの二条が記した鎌倉の「景色感」がいまいち伝わってこないのは私だけでしょうか。一応、木々が邪魔になりますが、坂を下ると少しだけ鎌倉の街並みが見渡せます。下画像です。ん~それでも何かしっくりこない気がします。

極楽寺坂下からの眺め

念のため、極楽寺坂が開削される前まで使用されていたと云われる稲村道、市史で云うところの稲村ヶ崎海岸道はどうでしょう。新田義貞の鎌倉攻めの際、大激戦区となった五合枡(仏法寺跡)辺りにその道が通っていたと思われます。極楽寺坂のある丘陵頂部になります。

五合枡からの眺め

直下に成就院、奥に甘縄辺りの削平された平地が眺められます。こちらの方が二条の記した鎌倉の「景色感」が伝わってくるようです。さらに、二条は「海をはるかに見わたすのは見どころがある」とも記しています。このいかにも高台から遠景を眺めたような表現から、旧道が近くを通っていたとされる仏法寺跡平場からの景色を私は思い出しました。そこからは下画像をご覧のように、鎌倉の海岸に三浦半島を一望できます。

仏法寺跡平場からの眺め

二条の云う化粧坂は極楽寺坂ではないか」説を考えていたら、いやいや「二条は旧道の稲村ヶ崎海岸道を通っているのではないか」疑惑が浮上してきてしまいました。考えるときりがありませんね。ちなみに化粧坂ですが、いまいちその景観ポイントが判然としません。一応、下画像は扇谷から大仏裏ハイキングコースに向かう途中から見える景色です。直下に佐介の谷戸、そして光明寺などの飯島方面を特に見渡せます。ただ、ここだと鎌倉の街並みが遠く感じますね。二条は何処から鎌倉の街並みを見たのでしょう。

化粧坂?からの眺め

後深草院二条の人間像


『とはずがたり』に記されていましたが、二条は多くの男性から言い寄られているので、美人であった可能性が高いと思われます。もしくは、強く押せば何とかなる都合のイイ女性だったのかもしれません。まぁこの辺りはどちらであっても、どちらにしろ男性からすれば魅力的な女性であることには変わりないでしょうか。また、著書に記された出来事から、気丈でやや突飛な行動に出る人間性がうかがえます。そもそも院で生まれ育ったような上層階級の女性が突然出家して日本全国の旅に出ること自体が突飛な行動なのかもしれません。大河ドラマなどでも有名な作家の永井路子先生によれば、「女性は自分の事を書くと、非常なナルシシズムに陥るか、自己弁護的になりがちなものですが、二条は自分というものを客観的にとらえて書いている」「こういう形での文学を書いた女性はこれまでありません」などとありました。二条は鎌倉滞在後、善光寺へ向かうため関東を離れます。文章を読みながら少し寂しい気持ちになりました。いつのまにか私も二条に惹かれてしまったようです。


今回こちらのサイト(外部サイト)から原文などのデータをいただきました。とても参考になりました。有難うございます。


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