2013年10月10日木曜日

満福寺


山号寺号 龍護山医王院満福寺
建立   奈良時代頃
開山   行基
中興開山 高範



満福寺縁起


江ノ電の腰越駅近くに所在する満福寺は、行基の開山と云われているので、随分とその歴史が古いようです。記録として確実なところでは、承安三年(1173)に没した高範という僧侶がお寺の中興に携わっています。それでも頼朝の鎌倉入り以前となります。開山と云われる行基が、薬師如来・日光菩薩・月光菩薩の三尊を彫って祈ったところ、蔓延していた疫病や海難事故がなくなったそうです。

満福寺山門と江ノ電線路

お寺に向かう際、まず山門をくぐる前になんと、江ノ電の線路が通っています。何処かで見た光景です・・そう、坂ノ下御霊神社のようです。江ノ電線路を通り越すと坂道になっているので、往時であれば山腹に境内があった感じだったのでしょうか、それとも周辺が削平されたのでしょうか。

満福寺山門脇から江ノ電線路を見下ろしたところ

満福寺境内


境内はそれほど広くありません。本堂のある平場とそこから一段高い場所に墓地として整備された往時でいう裏山部分があります。そして源義経が元暦二年(1185)に鎌倉入りを許されず一時的にこの辺りに逗留したという伝承に関わる「義経の手洗井戸」「弁慶のお手玉」「弁慶の腰掛石」などが境内にあります。

境内からすぐにちょっとした景色が望める 
墓苑に続くトンネル 仏教に関する色んなペイントが施されている

階段を登って行くと、また少し高い場所から周辺を見渡せます。場所が場所なので、江ノ島に続く弁天橋辺りの海岸が見えます。右の丘陵部奥には龍口寺が見えます。

裏山?からの景色

反対側からは墓地として大々的に整備された往時の裏山部分が見渡せます。

反対側の景色
ちょっと場違いな感じの

腰越状


寺伝によると、義経が頼朝の誤解を解こうと大江広元に渡したとされるあの有名な腰越状の現場がここ満福寺であったとされています。『鎌倉市史 社寺編』(以下市史)によると、寛永十年(1633)の『関東古儀真言宗本末帳』には(漢字ばかりなので重要な単語を抜粋すると)「海北山万福寺」「源義経」「腰越申状」などの文字が記されています。つまり義経が頼朝の誤解を解こうと努めた場所が満福寺であると記されているようです。しかし古文献とはいえ、寛永十年(1633)のもので、実際に義経が鎌倉入りを阻まれたのが元暦二年(1185)なので、ぞれでも随分と時間差が生じてしまいます。但し、市史では鎌倉が遊覧の地とされる以前の書で、観光客を対象に生じたものではない、つまりいくらか信頼性のある一文であるといったようにも受け取れる旨が記されていました。また『吾妻鏡』とは所々で記述が異なっているそうです。

満福寺からも近い国道134号線からの景色

『吾妻鏡』によれば、義経は平家との合戦後に鎌倉に戻る際、酒匂宿(小田原市)にて平家の捕虜で平宗盛を北条時政に引き渡して待機、そしてしばらくして今度は腰越駅で待機などと記されています。腰越の辺りに義経がいたのは確かなようですが、満福寺に義経が逗留したのかどうかといったところまでは明確には記されていません。確かなのは最期に義経が首だけとなって奥州から再び鎌倉に戻ってきたのが腰越の辺りと云われています。

お地蔵さん・・?



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探索期間 2013年5月
記事作成 2013年10月10日


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