2013年10月11日金曜日

證菩提寺


山号寺号 五峯山一心院證菩提寺
建立   文治五年(1189)~建久八年(1197)頃
中興   小菅ヶ谷殿


證菩提寺

證菩提寺縁起


五峯山一心院證菩提寺(ごほうざん・いっしんいん・しょうぼだいじ)は、治承四年(1180)石橋山の合戦で源頼朝の身代わりとなって討死にした佐奈田与一義忠の追善供養のため建立されました。栄区役所によると文治五年(1189)、横浜市教育委員会によると建久八年(1197)頃の開創とありました。證菩提寺の所在地は鎌倉の鬼門にあたり、この佐奈田与一を祀って供養すれば幕府鎮護になったと考えられたようです。ですから頼朝を開基と捉えても良さそうですが、はっきりとした事は記されていませんでした。


『吾妻鏡』では建保四年(1216)に相州(北条義時)が実朝の命により、証菩提寺で故佐奈田与一義忠の追善供養が行われたという記事がみられます。実朝もママである政子からそうするように言われただけなのかもしれませんが、頼朝が亡くなった後もこうして丁重に佐奈田与一の霊が弔われている事が伝わってきます。それにしてもこの扱われ方、余ほどの絶対絶命のピンチから頼朝を救ったようですね、佐奈田与一さん。

岡崎義実墓所

客殿のある地上部から裏山を登って行くと、無縁仏などが並べられた平場に出ます。寺の縁起からもここには丁重にその佐奈田与一の供養塔が祀られているのかと思いきや、与一の父で岡崎義実の墓が丁重に祀られていました。

無縁仏と奥に岡崎義実の墓がある 義実の石塔は現代のもの

さらにこの平場からもう一段高い場所に広めの平場があって、琴平神社が祀られていた他、鐘楼などがありました。ちゃんと地形が段々になっています。

琴平神社と鐘楼がある平場
裏山は墓地として土地開発されている

そしてそこから更に奥が近現代に開発されたであろう證菩提寺の墓地となっていました。ちょっとした景色を眺めることができます。往時の裏山からの展望からはどこまでも続く上郷・本郷の街並みが見渡せました。

證菩提寺裏山からの展望

岡崎堂


往時の境内は、東は板中(山手学園入口)、南は矢沢木戸口(フローラ桂台)、西は辺渕橋、北は竹後大道(元大橋)であったそうです。この辺の地理に詳しくないとそんな事言われてもピンとこないと思いますが、とにかくですね、町が2つ3つ入るとてつもない広さです。最下部のグーグルマップにマーカーを置いてあるので詳細を確認したい方はそちらをどうぞ。往時は阿弥陀堂を中心として大日堂・中房・慈台堂・実応房・智台房など七堂を配した幕府鎮護の大寺院だったようです。岡崎義実の没後、大日堂に祀りこれを岡崎堂と呼び、次第に寺の中心となったため義実の法名である「證菩提」を寺号としたという所以となるそうです。こうした事から現在でも岡崎義実が丁重に弔われているようです。

證菩提寺からも近い遊水池からいたち川に流れる水路

県道23号からみて證菩提寺から更に奥となる現在の桂台という住居表示される辺りは、往時では山奥になるのかと勝手に思っていましたが、上記した寺域範囲からも鎌倉時代から土地開発がされていたようです。

證菩提寺から桂台方面を行く道 往時からあったのかも

北条政子が亡くなった後、お寺は一時的に衰えますが、北条泰時の娘で小菅ヶ谷殿が施主となって嘉禎二年(1236)に本郷新阿弥陀堂が建立されています。翌年が北条政子十三回忌にあたるため、北条政子の追善のためと考えられています。ですから證菩提寺は佐奈田与一の追善供養のために建立されたものの、いつしか父の岡崎義実を祀り、さらには北条政子の供養のための場となったようです。源氏一族から東国の王の座を奪った北条氏の鎌倉の歴史そのものを垣間見た気がしました。

上郷市民の森から見た證菩提寺の往時の境内



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探索期間 2013年7月~8月
記事作成 2013年10月11日

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