2013年9月23日月曜日

和田合戦


強大な勢力を次々と排除してきた北条氏が鎌倉における権勢を確立する節目となった出来事の一つに和田合戦が挙げられます。和田一族を滅ぼした北条義時執権職を確立させ事実上の最高権力者に躍り出ます。
そして「鎌倉遺構探索」として興味深いのは、この大規模な合戦が全て鎌倉市街地内で行われている点です。


和田左衛門尉義盛


侍所別当という幕府内における軍事を司る要職に就いていた和田義盛は、弓の名手で笠懸などで射手として度々『吾妻鏡』にその名が記されています。数々の合戦における記述にも必ずと言っていいほど彼の名が登場します。三浦一族の分家であるものの、本家の勢いを上回っていたと評価できるのではないでしょうか。

山ノ内荘は和田義盛の所領か?


和田義盛は、上総国伊北庄(千葉県いすみ市)や六浦荘(横浜市金沢区)などを所領としていた事が知られています。そして一部の専門家先生方の著書によると、なんと山ノ内荘も義盛の所領だったとする見解がみられます。山ノ内荘とは、北鎌倉駅辺りから西は玉縄、北は横浜市戸塚区から港南区までを含む広大な地域を指します。

山ノ内荘上郷

実際に山ノ内に行って分かったのは、田谷の洞窟がある定泉寺の辺りが義盛の三男で朝比奈三郎義秀の邸跡であるという伝承が残されている事、そして上郷には証菩提寺というこれまた和田と同族の岡崎義実に深く関連した寺院があった事です。
鎌倉市教育委員会の調査報告書では、山ノ内荘は、首藤氏から土肥実平に渡った後、北条義時の所領になったという経緯しか記されていませんでしたが、土肥実平と先ほどの証菩提寺の岡崎義実の両氏の子孫は和田合戦の際、和田方に組しています。ですから和田であれ土肥であれ岡崎であれ、どちらにしろその後に北条氏と敵対する氏族が山ノ内荘に関連しています。この山ノ内六浦というその後の北条氏の繁栄を支える事となる重要な土地を和田義盛が握っていたことになります。

証菩提寺 岡崎義実墓 往時は岡崎堂が建てられていた

一騎当千和田一族


前述したとおり、弓の名手で知られる和田義盛ですが『吾妻鏡』に記された奥州合戦の記事から、彼が13束の矢を使用していた事が分かります。1束が大体握りこぶし程度です。この時代の弓矢の平均的なサイズが分かりませんが、この奥州合戦の際に義盛と対戦した敵の大物が14束の矢を所持する巨漢であったと記されているので、ワンサイズ違いの義盛も少なくとも体格の良い力持ちだったと考えられます。
そして何と言っても、義盛の三男で朝比奈三郎義秀でしょうか。「朝比奈切通を一夜で切り開いた」という伝承を持つ彼は、『吾妻鏡』の一幕によると、将軍頼家が御家人らを連れて小坪にて遊覧していた際、「海に潜ってサメを三匹捕まえてきた」と、それはないでしょとツッコミたくなるような凄すぎて笑ってしまう記述がサラッと当たり前のように記されています。

和田一族が将軍頼家と訪れた小坪遊覧の地

また、北条氏の視点で記されたはずの吾妻鏡ですが、和田合戦における彼の戦いぶりを「神のよう」「彼と戦って死を免れない者はいなかった」「天地を震わせる」と絶賛するかのように記されています。よほど凄かったのでしょう。
そしてこの義秀の兄で和田常盛は、上記した小坪での遊覧の際、義秀と相撲をとっていますが勝敗が付かずこう着状態になったとあります。なんと「彼と戦って死を免れない者はいなかった」と云われる義秀と同等に渡り合っています。この事からも、兄弟そして義盛をはじめとする血の繋がった一族全体がとてつもないツワモノであったと思われます。

序章 健保元年(1213)


2月15日陰謀
阿静房安念という一人の法師が捕らえられた事により、故頼家の若君(栄実)を大将軍として北条義時を失脚させる陰謀が露見します。その後、一味とされる200人以上が芋づる式に捕らえられる大事件へと発展し、 加担者の中に和田義盛の子で四郎義直六郎義重、甥の胤長などが含まれていました。

2月25日歌ノ橋
捕らえられた者達の裁決が下されていく中、斬首獄門という厳しい判決が下された者のうちの一人で渋川刑部兼守が十首の和歌を詠じて荏柄天神に奉納します。
荏柄天神に参籠していた工藤祐高がこの渋川刑部の和歌を御所に持参し将軍実朝に見せたところ、なんと、和歌に感動した実朝が急使を発し渋川刑部の処刑を中止しています。この時、渋川刑部が荏柄天神の御利益と感謝し近くの滑川に橋を架けたのが「歌ノ橋」とされています。

歌ノ橋

陰謀の加担者に和田一族が含まれていました。この事から、北条義時を失脚させようとした陰謀の黒幕が和田義盛だったとも考えられます。
だとすると、意外にも先制攻撃を仕掛けようとしていた方が和田となります。ただ、彼の言動を記した多くの資料からは、陰謀を企むような人物とは思えぬ実直な人間性が伝わってきます。そもそも梶原氏・比企氏・畠山氏の時などと同様、北条氏がでっち上げたトラップのようにも思えますが、真相はいかがなものでしょうか。

北条義時の挑発


3月8日屈辱 和田義盛
上総国伊北庄(千葉県いすみ市)から和田義盛が鎌倉に到着。将軍実朝にこれまでの自分の功績などを訴え四郎と六郎の2人の息子が釈放されます。
翌日、義盛は一族98人を率いて残る甥の胤長の赦免を願い出ますが、実朝への面会が許されなかったばかりか、一族が列座する前で胤長が後ろ手に縛られ囚人として二階堂行村に引き渡されます。「大江広元が取り次ぎ義時が実朝のご意向を伝えられた」とありましたが、北条義時の「ご意向」であったのではないでしょうか。

3月17日一族の配流
胤長が邸地などの所領を没収され陸奥国岩瀬郡に配流されます。胤長の6歳となる愛娘がこれを悲しむあまり病にかかり数日後に息をひきとってしまいます。しかしその胤長もまた合戦後にこの配流先で誅殺される運命にありました。また一族中の没収所領はその一族に優先して渡されるという中世社会の掟から「荏柄社の前で御所の東隣」にあったとされる胤長の邸地が義盛に還されます。

荏柄天神前

4月2日義盛の決意
義盛に還されたはずの胤長の邸地を北条義時が拝領し、邸にいた和田氏の関係者を追い出してしまいます。義盛が不満を抱いたのも当然ですが、現状における義時との優劣を考えると、事情を訴えたところで無駄な事だと悟り、義盛はそのまま引き下がったようです。ただ、和田義盛及び一族の北条義時への怒りや不満がこの時頂点に達したことでしょう。

4月27日合戦へのカウントダウン
将軍の使者が義盛邸に訪れます。義盛に謀反の疑いがあるととしてその実否を問いただしにやって来ました。「将軍には全く恨みなど抱いてない、北条義時の所業が傍若無人である」と義盛が訴えます。この使者の話を聞いた北条義時は「義盛の謀反は間違いない」と判断し御家人達を御所に集めます。そしてこの時点で両者の衝突は避けられない状態に突入して行くこととなります。


和田義盛の作戦


地図画像①の辺りが和田義盛邸と一部著書・資料などで記されています。若宮大路の西側でホテル・シャングリラがある辺です。そして画像②の宝戒寺が北条義時邸です。この時代はもう少し御所寄りに邸を構えていたのではないかと思われますが、確証がないので今回は定説に従います。現代の我々の価値感からは北条義時邸②より和田義盛邸①の方が一等地ですね。

Google Map 鎌倉市街地
①和田義盛邸 ②北条義時低 ③御所 ④法華堂

和田義盛の最大の狙いは北条義時の首にあったと思われますが、源義朝が平治の乱でそうだったように、この時代、最高権力者を自陣に引き込んでしまえば自ずと官軍となります。ですから北条義時に将軍実朝を囲われてしまうと、義盛が逆賊となり鎌倉中の御家人から集中砲火を浴びる結果となってしまいます。義盛としてはそれは是が非でも避けたいところなので、和田方にとって重要なのは、まずは実朝の身柄を確保する事にあったと思われます。
合戦の際、義盛は軍勢を分け義時邸(画像②)と御所の南門(画像③の下)に兵を集中させています。また『吾妻鏡』によれは、三浦一族本家が和田方として御所の北門(画像③の上)を警固する約束であったことが記されているので、これらの事からも、やはり義盛は、御所の北と南の出入口を塞ぎ、義時邸と御所を寸断する、つまり実朝の身柄を確保しつつ義時を討つ作戦であったと考えられます。

序盤の激戦区となった違橋(筋替橋)付近

和田義盛の誤算


合戦当日、三浦義村が北条義時邸に訪れ「義盛が挙兵した」と伝えます。義盛が最も頼みとしたであろう三浦一族本家が直前で和田一族を見限ります。
血族同士の結束が特に固かったこの時代、本家の裏切りは義盛としても、そして周囲にとってもまさかの意外な出来事だったと思われます。後に、三浦義村が千葉胤綱に「三浦の犬は友をも喰らうぞ」と皮肉られたという話しは有名ですね。

北条義時邸跡

少し気になるのは、和田方としてこの合戦に参加した横山時兼が一日遅れで合流しています。吾妻鏡には「矢合わせの日」つまり予定通りに合流したとあります。ですから義盛は予定を早めて決行したとも受け取れます。三浦が裏切った事を察したのかもしれませんし、もしくは北条義時が囲碁の会を開くという情報を直前で入手し絶好のタイミングと考えたのかもしれません。ただ一方で、これまでも情報戦では必ず相手の上を行く北条氏です。この時も義盛の甥にあたる高井重茂を味方に付けていたので、和田方の動きを察知していた可能性もあります。北条氏側の視点で記された吾妻鏡の記述だけでは伝わらない両者の水面下でのかけ引きが義盛の行動を早めたのかもしれません。ちなみに一族を裏切った高井重茂は合戦中に朝比奈三郎によって討ち取られています。


開戦


5月2日
合戦勃発
前述したとおり、三浦義村が北条義時邸に訪れ義盛が挙兵したと伝えます。囲碁の会を開いていた義時は、驚くことなく席を立ち折烏帽子を立烏帽子に改め水干を着て御所に向かった云われます。落ち着いた様子が記される義時ですが『吾妻鏡』には「今朝起こるとは思わなかったため御所では警固の備えをしていなかった」とあります。

御所焼失
和田義盛は150の軍勢を三手に分け御所(地図画像①)の南門義時邸(画像②)を囲みます。この時点で義盛は三浦が裏切っていた事を知らなかったのかもしれません。朝比奈三郎義秀が惣門を破って南庭に乱入し御所に火を放ちますが、将軍実朝、大江広元、北条義時の三人は三浦が警固するはずだった北門から法華堂(画像③)に避難しています。しばらくの間、地図画像①②間の横大路近辺が戦場となったもようです。御所内では瞬く間に朝比奈三郎によって警護の者達が命を落としていきます。

①幕府 ②義時邸 ③法華堂 ④米町口付近 ⑤下馬 ⑥甘縄・前浜 ⑦名越 ⑧大倉 ⑨赤橋付近

この間、合戦が数刻におよびますが、将軍と義時を見つけられないと悟ったのか、和田勢は後退したようです。吾妻鏡の記述は米町口(画像④近辺)で朝比奈三郎武田信光と出くわすシーンに切り替わります。合戦は明け方にまで及び、矢もなくなり兵馬に疲労がみられた和田勢は前浜の辺り(画像⑥の下方)まで退去します。北条泰時下馬橋(画像⑤近辺)で陣を構えます。


5月3日
決戦
兵糧を断たれた義盛の下に横山時兼などの待望の援軍が到着します。3000騎に膨れ上がった和田勢は再び奮起しますが、同時に将軍の下に馳せ参じる御家人らも鎌倉に続々と到着します。北条義時は「謀反を起こし主君に弓を引いた和田の者どもを討ち取り進めよ」と実朝御花押が記された書状を御家人らに通達します。和田勢が最も避けたかったであろう逆賊として鎌倉中の御家人から攻撃を受ける最悪な状況へと突入してしまいます。

幻の三浦道
北条義時は要所における警固を御家人らに命じます。若宮大路(画像⑤)は北条時房泰時の叔父と甥のコンビ、町大路(画像⑧)は足利義氏名越(画像⑦)は源頼茂大倉(画像⑨)は佐々木義清結城朝光らがそれぞれ陣を張ります。
和田義盛が前浜(画像⑥下辺り)から御所(画像①)を目指します。それに対し幕府側は若宮大路⑤から東側を特に堅守したようです。
面白いのは、前浜⑥辺りにいる和田に対して名越⑦と大倉⑨はそれ程力を入れて守る必要があるのかと少し疑問に思ったところ、あることに気付きました。大倉⑨と名越⑦を縦に結ぶ「三浦道」の存在です。名越⑦と大倉⑨を警固するこの陣形からも三浦道を塞ぐためのものであったのは一目瞭然でしょうか。現在その正確な道筋が分かっていないものの存在していた事だけは知られているあの幻の三浦道です。これに気付いた時ちょっと感動してしまいました。

三浦道が近くを通っていたとされる釈迦堂口遺跡の掘割状地形

奮戦 朝比奈三郎
合戦の記述は主に町大路(画像⑧)の辺りに集中しています。特に朝比奈三郎土屋義清古郡保忠の三騎が猛威を振るい四方を取り囲む幕府側の軍勢が何度も退散したとあります。
この時、北条泰時は御所に「敵の武力はあなどれない、再び賢慮をめぐらすように」と報告しています。吾妻鏡のことなので、聖人君子泰時殿が思慮深いお方だったと伝えたかったのかもしれませんが、ここは文面通り、朝比奈三郎をはじめとする和田勢の勢いが凄かったと受け取りましょう。

町大路
神の鏑
一騎当千の和田一族もこのままでは多勢に無勢です。ここで土屋義清が血路を開きます。甘縄(画像⑥)から六地蔵を左折し今大路を北上し、寿福寺を右折して窟堂(いわやどう)を通り過ぎ八幡宮前太鼓橋(画像⑨)付近にまで迫ります。若宮大路から西側には幕府側の軍勢がいなかったのか、土屋が押し切ったのか分かりませんが随分と奥深くまで切り込むことに成功しています。ただその太鼓橋付近から放たれた一本の矢が土屋義清を射抜きます。御所まであと少しというところで義清は絶命してしまいます。吾妻鏡はこの義清を射抜いた矢を「神の鏑」と記しています。ここを突破されていたら幕府側も危うかったということが伝わってくるようです。

八幡宮太鼓橋付近

義盛の最期
日も暮れる夕方頃、義盛の子で四郎義直が討ち取られます。義盛はその場で泣き悲しんだと云われています。愛する息子を失った悲しみでもう残す力もなかったのでしょう。まもなくして自刃することもなく敵に討ち取られてしまいます。続けて義盛の子で五郎・六郎・七郎も落命。大将を失った和田勢は総崩れとなり、討ち取られる者、逃亡する者、生け捕られる者が入り混じりここに合戦が終結します。由比ヶ浜に義盛ら一党の首が集められました。

由比ヶ浜


朝比奈三郎は何処へ
その後数日以内に、和田常盛横山時兼古郡保忠兄弟らが逃亡先の甲斐国で自刃、岡崎実忠が誅殺されるなど主だった和田勢の面々が合戦後も追い詰められていきます。さて、吾妻鏡が「神のよう」と記した朝比奈三郎はというと、合戦後、船で安房国に向かったと記されています。どうやら逃亡することに成功したようです。しかしその後の戦死者名簿に朝比奈三郎の名が載せられています。ちょっとおかしいのは、これ程の大物に対して細かい状況の記述もないまま、最後にただ名簿に名前が載せられているだけの状態となっています。朝比奈三郎には人気者ならではの「本当はその後も生きていた説」が全国各地にあるそうです。この吾妻鏡の怪しい記述からも、本当に何処かで生き残っていた可能性があるのかもしれません。

三浦半島~房総半島のフェリーから 和田義盛・朝比奈三郎もこの航路を使っていたかも

終結
合戦は幕府側の死傷者だけでも1050余人を出す大惨事となりました。一方で和田方は、義盛の一番下の子と思われる15歳の七郎秀盛を含め義盛親子は全員死亡。その他、同族の土屋、岡崎をはじめ横山、古郡、土肥、山内、梶原、毛利など主だった面々は時期や状況こそ違えど結局命を落としています。これらの所領が没収され、功績のあった者への恩賞として配られています。北条義時六浦山ノ内の地に加え侍所別当職を得ます。ここに幕府における絶対的な権力を掌握することとなりました。


上総介塔


そういえば、義盛の所領であった六浦のしかも朝比奈町という地名の付近に上総介塔という石塔が道路沿いに置かれています。上総介とだけ言われてもこの長い歴史の中でその職に就いた者は大勢います。現在のところ誰の石塔なのか分かっていないようです。

上総介塔

和田合戦の3年前に和田義盛上総介の職(上総の国司)に就きたいと申請しています。政所を司る立場にあったのが北条義時なので、そんな願いが通じる訳もなく、結局最後まで義盛は上総介の職に就くことを認められていません。
もしかしたら、この六浦という和田一族に関連した土地柄だけに、和田合戦の後、義盛の供養塔として、一族の生き残り、もしくは村の人達が義盛を上総介としてあの世に送り出した石塔ではないかと思えてきました。今こうして和田合戦の記事を書いた私の頭の中が和田義盛一色であるためこの強引なこじ付け感は否めませんが、そんな由来の石塔だったら素敵な話しだなぁと思いました。


和田義盛治承四年(1180)の頼朝旗上げ時から関東の西国からの独立に大きく貢献した功労者の一人です。享年67歳でした。
この記事を書いていて気付きましたが(現在2013年)和田合戦健保元年(1213)の出来事です。この出来事から今年でちょうど800年目となります。

カテゴリー 鎌倉遺構探索事典
記事作成  2015年3月2日

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