2013年9月18日水曜日

深沢


深沢村


『吾妻鏡』に「深澤里」「深澤村」の地名が登場します。特に大仏鋳造に関する記事で度々その名がみられます。鎌倉時代では大仏のある辺りから深沢と呼ばれていたようです。近世では、梶原・寺分・上町屋・笛田・常盤・津・腰越・手広・片瀬・川名の10ヶ村を含む広大な地域を深沢と云ったそうです。これだけ歴史ある字名でありながら、現在「深沢」という住居表示はないそうです。さみしいですね。鎌倉市ではあるものの鎌倉市街地中心部から離れているため、辺りの景観は住宅街と広大な工場地帯で占められており「古都鎌倉」とは別世界である感は否めません。道の上を走るモノレールが印象的です。

鎌倉街道と深沢


という事で、下地図画像は、深沢の中でも寺分という字名が残されたエリアを中心に梶原・洲崎・笛田などにまたがっています。

Google Map 寺分
①大慶寺 ②東光寺 ③梶原御霊神社 ④横穴墓群 ⑤等覚寺 ⑥泣塔 ⑦中学校 ⑧小学校

画像中央に旧態を保つ地形が残されています。大慶寺東光寺御霊神社等覚寺と、4つもの寺社がこの丘陵を背にして所在しています。よくよく調べると、なんと2本もの鎌倉街道がこの丘陵を挟むように通っていたことが分かります。(白の線①②) 白の線①が化粧坂からここを通過して村岡に向かういわゆる鎌倉街道上道と呼ばれる幹線道路です。そして白線②が『吾妻鏡』養和元年(1181)にあった、主人足利後綱の首を持参した従者の桐生六郎が鎌倉に入ることを許されず「直に深沢を経て腰越に向かうよう」指示されたという大仏坂から連なる深沢通りです。これら二本もの重要な鎌倉の幹線道路がこの寺社が密集する丘陵の目の前を近接しながら通過しています。鎌倉中心部から離れていますが、この辺りが結構な交通の要所なんだということが分かりました。あなどれませんね。

画像⑥からさらに村岡寄りに行った鎌倉街道 
コンクリート舗装されているものの地形の起伏が残されている

地図画像①にある大慶寺が往時では関東十刹に列せられるほどの大寺院であったため、周辺は大慶寺の塔頭が建ち並んでいたようです。元々このような、もしくはこれ以上の寺院密集地帯だったようです。この辺りに残された「寺分」という字名は「大慶寺分」から由来しています。現在は往時の大慶寺の寺域を周辺に分けているので、「大慶寺の寺域を分ける」を略して「寺分」といった状態になっています。そして地図画像⑦の中学校か⑧の小学校が元々の大慶寺位置のようです。鎌倉では大抵にして寺地跡・邸地跡に学校が建てられるのである意味分かりやすいです。

大慶寺

鎌倉街道を地図画像でいう左側に進むと、上町屋と呼ばれる地域となり柏尾川を渡ると村岡となります。金沢の称名寺付近にもありましたが、この「町屋」という字名が残された土地は、商業的に賑わっていた地域と考えて間違いないようです。ここでは柏尾川という水路が目前にあるため、この河と旧街道の陸の物流が重なる商業的に適した地域だったと思われます。

柏尾川手前にある泉光院境内から寺分方面を眺めたもの
泉光院


鎌倉を侵略する者が必ず通過する地


地図画像⑥が泣塔と云われる有名な宝篋印塔が安置されている場所で、元弘の乱で赤橋守時新田義貞と決した洲崎の古戦場跡の一画です。赤橋の軍勢を破りこの地を制圧したことにより新田勢は巨福呂坂・化粧坂・極楽寺坂へと向かう事ができたと云われています。

泣塔位置から眺めた洲崎 見渡す限り土地が削平されている

また戦国時代では、上杉謙信によって近辺が戦火に包まれたようで、大慶寺などが被害を被っています。もちろんこれは上杉謙信の小田原城攻めの際によるものと思われます。謙信はこの時に鶴岡八幡宮で関東管領職就任式を執り行っています。そして上記したように大慶寺が被害を被っているということは、もしかしたら謙信も新田義貞と同じく洲崎から鎌倉に進入したのかもしれません。そうすると謙信は化粧坂か大仏坂を経由して鎌倉入りしたんでしょうか。ただ、謙信はこの時に関東の諸大名10万の兵を率いてきたと云われているので、大慶寺のある寺分に限らず鎌倉全体が乱取りなどの被害にあっていたのかもしれません。ですから寺分周辺で発生した戦火は謙信によるものとは限らないかもしれません。但し、柏尾川を渡るとすぐに玉縄城の出城で高谷砦があるので、謙信がこの辺りを通過した可能性は捨てきれません。


寺分横穴墓群


深沢エリアではかなりの数の横穴墓が見つかっています。残念な事にそれらほとんどが宅地開発で既に失われていますが、ただ、所々でその一画に急にその名残りとも思われる地形が現れます。特に地図画像④の小学校裏側に横穴群が残されています。フェンスで入口が塞がれていますが、少しだけ中を見ることができます。

普通に車道沿いにこうした横穴が突然ポツンと現れる

『鎌倉市史 考古編』に縄文時代の想定地形図が載せられています。当時は川名の辺りから洲崎を通り過ぎ戸塚の方まで入江となっていたので、そうした名残りからこの辺りも古代の人達にとって暮らしやすい場所だったのかもしれません。そもそも深沢にはその入江の名残りとして大きな湖があったと子ども風土記に記されていました。現代の様相からは全く想像できませんね。



笛田


寺分から仏行寺や青蓮寺のある笛田・西鎌倉方面に行くと、まだまだ旧態を残す地形が残されています。仏行寺の近くでは朝比奈町や玉縄などでもよくみられた広大な敷地にポツンと大きな家がある昔の農家のような風景がみられます。大手デベロッパーの宅地化の誘いにも応じず、高い税金を払いながらも先祖代々受け継いできた土地を守っているこれら地主さん達の生き方に鎌倉武士のようなプライドみたいなものを感じます。こうした地主さん達によって鎌倉の一画に旧態が保たれているようです。

笛田の農家さん
仏行寺


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記事作成  2013年9月18日

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