2013年9月17日火曜日

泣塔


洲崎古戦場の一画に残された小さな丘には泣塔と呼ばれる宝篋印塔があります。宝篋印塔は元弘の乱における洲崎合戦で亡くなった人達の供養塔です。文和元年(1356)の23回忌によるものと云われていて、実際にも基盤にその年号が刻まれています。
我々日本人の、特に関東で生まれ育った我々の祖先達が命を削りながら時代を創り上げてきた歴史を伝える貴重な史跡です。

洲崎と呼ばれるこの辺り一帯の中でも、この泣塔がある一画を陣出と云うそうです。ここに陣があったことに由来する地名と云われています。



洲崎の合戦


元弘三年(1333)新田義貞が鎌倉に進軍してきた際、執権の赤橋守時の軍勢がここで新田勢と激しく衝突しています。戦場は北が山崎天神の辺り、南がここ陣出の辺りと云われています。柏尾川の向こうから新田義貞が進軍してきたと思われるので、鎌倉を背にするこちらの陣出にいた方が赤橋と思われます。この時、赤橋率いる軍勢は一昼夜に60回以上の突撃を繰り返したと云われていますが、それでも新田勢の大軍にはどうしようもなかったのかもしれません。最期は千代塚という場所で赤橋は自刃したそうです。辺りは広大な工場地帯として地形ごと削平されているので、その千代塚は既に失われていると思われます。

泣塔位置から眺めた辺りの景観 見渡す限り地形が削平されている

赤橋の敗戦により、新田勢は巨福呂坂・化粧坂・極楽寺坂と鎌倉の西半球を取り囲みます。そうすると自然の要害である鎌倉を囲む山稜が鎌倉の最後の砦となりますが、新田勢に突破されるのにそれ程の日時はかかっていません。洲崎は何が何でも死守しなければならない場所だったのでしょう。


工場跡地のような広大な敷地と団地に挟まれた場所に泣塔のある丘があります。泣塔のためにここだけ旧態地形が残されたようです。丘の周りはフェンスに覆われていて入れないようになっています。丘の前に泣塔の説明が書かれた案内板がありましたが最後に「昭和26年 日本国有鉄道大船工場」とありました。昭和26年って・・この案内板自体が遺跡となりつつあるようです。

泣塔のある丘 フェンスに覆われて立ち入れないようになっている
前からこの宝篋印塔を見てみたい、手を合わせてお参りしたい、と思っていたのでその姿を見た時の神々しさったらありませんでした。感動しました。塔の後ろにやぐらが施されていて五輪塔が数基並んでいます。

泣塔
泣塔の後ろにあるやぐらと五輪塔

泣塔の所以


ある時、この土地の地権者が泣塔を青蓮寺に移したところ、夜な夜なすすり泣くような声が聞こえるので、お寺の人達は元の場所が恋しくて塔が泣くのだろうと思い、結局元の場所に戻したという逸話が伝わっています。これが泣塔と呼ばれる所以です。また、この土地を手に入れた人が必ず貧乏になる。次から次へと地主が変わる。さらには第二次世界大戦中、旧日本軍が兵器造成のための工場をこの地に建てましたが、その旧日本軍でさえこれらの不吉な伝承からこの泣塔をそのままにしたそうです。

泣塔周辺の景色

こうして「曰く付きの石塔」として語られる泣塔ですが、これは何とか史跡をそのままの状態で保護出来ないものかと考えた結果、思いついた一つの手だてではないかと個人的に思いました。つまり泣塔が撤去されないように考えた結果、撤去した者が不幸に見舞われるという噂をでっち上げたのではないでしょうか。噂が噂を呼び恐ろしくて誰も手を出せなくなりますね。危険な場所に子どもを近づけさせないようにオバケが出ると言って遠ざけさせるよくある手法と似ているでしょうか。
都合の良い事に、泣塔は心霊スポットとして一部の人達に扱われているそうです。しかもこうした心霊現象を信じる人達が勝手に噂を広めてくれます。こうして泣塔はいつまでも恐ろしい存在としてこの地に留まる事が出来るのでしょう。世の中ってうまくできてますね。

思い入れの強い史跡だったためか 帰り際いつまでも手を振ってくれているようだった(笑)


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記事作成  2013年9月17日

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