2013年9月13日金曜日

大慶寺


山号寺号 霊照山大慶寺
建立   弘安年間(1278~1287)
開山   大休正念
開基   -



大慶寺縁起


霊照山大慶寺(れいしょうざんたいけいじ)は開山に大休正念(だいきゅうしょうねん)を迎え、弘安年間(1278~1287)頃に建立されました。大休正念は建長寺や円覚寺などにも住した高僧で、中国からの渡来僧です。
あまり詳しい記述が見当たりませんでしたが、開山に大休正念を起用しているので、やはり北条氏、中でもとりわけ得宗家が関わっているのかもしれません。実際にもお寺には建長寺・円覚寺などで見かける北条氏家紋をモチーフにした装飾がみられました。ただ『鎌倉市史 社寺編』(以下市史)には北条氏康に寺領を安堵されたとあったので、そっちの北条さんでしょうか。ちょっと分かりません。

古刹の代名詞 大きなビャクシン

往時の大慶寺


元亨三年(1323)貞時十三回忌に参列した僧侶の数から推測するに「かなりの大寺である」と市史にありました。しかも室町期では関東十刹に列しています。また、上杉能憲の仏事を行っているともあったので、庇護者に恵まれていたようです。少なくとも鎌倉が都市として機能していた時代までは栄えていたのだと思われます。この辺りに残された「寺分」という字名も「大慶寺分」から由来しています。実際に現地に来るとその往時の寺域の広さを実感します。


その他に、方外庵・指月軒・覚華庵・天台庵・大堂庵の五院の塔頭があった事が伝わっています。そして実は大慶寺、天保十二年(1841)廃寺となっています。長らく無住の時代が続き、唯一残っていた塔頭の方外庵(ほうがいあん)を昭和の時代に大慶寺と改めたそうです。つい最近ですね。近隣にある中学校もしくは小学校が元々あった本寺である大慶寺跡なんだそうです。


大慶寺境内


塔頭の方外庵跡といっても境内はそれほど狭くはありません。丘陵部には切岸にやぐら、そして庭園のような造作がみられます。また歴代住職の墓と思われる石塔が安置されているやぐら以外は内部が石切りされていたり倉庫的な使われ方をしていました。現在はやぐらとして活用されていないようです。

やぐら 歴代住職墓か

庭園造作 曲線を描いた削り方に階段や池などがみられる

境内丘陵部寄りの隅っこにあたかも隠しているかのように無縁仏となった中世の石塔が置かれていました。同じ丘陵部を背にする等覚寺に洲崎の合戦における五輪塔が多数置かれていたので、こちらも土地柄上、元弘の乱に関連する石塔かもしれません。また丘陵部には往時の裏山への登頂口なのか、掘割状がみられます。

無縁仏
境内奥の丘陵部掘割状

そしてこちらの宝塔、見た限り欠損部分がないようです。これ程整った宝塔を見れる機会はそうそうないと思われます。思えば東勝寺の腹切やぐらにあったあの欠損部位だらけのかわいそうな宝塔を見て、宝塔って一体どんな形をしているのだろうと思っていましたが、今ここに来てようやくその完形を目にすることが出来ました。

宝塔
境内脇から丘陵部へ登頂出来る箇所があります。山腹の中段に平場がありました。

山腹平場
山腹平場からの景色
鎌倉の外れにどうしてこんな(往時の)大寺院があったのだろうと思いましたが、周辺の歴史を調べると、鎌倉中心部への出入口として当時は重要な土地柄だった事が分かります。


大慶寺があった辺りを「大工谷戸」と云うと近くにある中学校前の案内板に記されていました。大慶寺お抱えの大工さん達が住んでいたそうです。往時ではこの辺りは大慶寺が中心となった町だったようです。

大慶寺付近にある中学校 旧大慶寺跡候補地の一つ


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記事作成  2013年9月13日

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