2013年9月12日木曜日

仏行寺


山号寺号 笛田山仏行寺
建立   15世紀頃
開山   日秀
開基   -



仏行寺はツツジで有名なお寺です。境内というか裏山一面がツツジ畑となっています。本堂裏からは見上げるように、そして裏山からはこのツツジ畑の全景を見渡すように眺められるのでその景観に圧倒されます。画像は4月後半のもので、未だ満開になっていないのか、もしくは逆に盛りを過ぎたのか、草花にうとい私にはよく分かりませんが、例年だとゴールデンウイーク前後が見頃とのことです。


山門を入ると本堂、その裏に池庭、そして裏山がツツジ畑となっています。境内はそれ程広くありません。ですが裏山の形状と一面に広がるツツジのせいか、とても広く感じます。不思議な感じです。

薬医門形式の山門
本堂

源太塚


裏山頂部には梶原景時の長男で梶原源太景李(かじわらげんたかげすえ)の片腕が埋められていると伝わる源太塚があります。こちらもツツジで覆われています。

源太塚

梶原景時の失脚により、鎌倉を離れる事になった景時及び一族は、駿河で地元の武士と交戦し、景時・景李親子を含めた一族はこの時全滅しています。この景季の妻であった信夫(しのぶ)はこの知らせに悲しみ、この山で自害したと云われています。この信夫の夫を慕う悲しみの声が毎夜のように聞こえてきたので、村人が信夫塚を立て、その下に仏行寺が建てられたと云われています。ただ、その信夫塚は宅地開発で既に失われているそうです。


仏行寺縁起


明応四年(1495)に亡くなった日秀という僧が開山とあったので、仏行寺の開創はだいたい15世紀中頃ぐらいかと思われます。
上記しましたが『かまくら子ども風土記』にあった「信夫の夫を慕う悲しみの声が毎夜のように聞こえてきたので、村人が信夫塚を立て、その下に仏行寺が建てられた」というこの一文をサラッと読むと、あたかも信夫の霊を弔うために仏行寺を建てたかのように思えてしまいますが、景時・景季親子が落命したのが正治ニ年(1200年)なので、源太塚・信夫塚が立てられたのもその頃だと思われます。そして仏行寺の開創が15世紀中頃と考えられるので、仏行寺はこの夫婦の塚が立てられてから200年以上の後の開創となります。ですから仏行寺はこの源太塚・信夫塚には直接関係ないのかもしれません。まさかとは思いますが200年以上も経った後に「信夫の声が聞こえる」とか言うスピリチャルな人の声を真に受けてお寺を建立するなんて有り得ませんよね・・もしかしたらあったりして。

裏山へと登る丘陵壁面沿いにいくつもやぐらがみられる

境内にはやぐらが施されています。やぐらが営まれた時期の一般的な定説としては『鎌倉市史 考古編』にあったように「鎌倉が都市として機能していた時代」つまり永享の乱(1438年)によって鎌倉府が消滅し、鎌倉が都市ではなくなったその時辺りまでと考えられています。ですから15世紀中頃に開創された仏行寺のやぐらは、年代的にはギリギリその範疇でしょうか。ただちょっと微妙な感じもします。


仏行寺は梶原景李邸跡か?


唐突ですが、現代において自殺者がその行為に及ぶ場合、「自宅マンションの屋上から飛び降りる」「自宅のベットで睡眠薬を多量に摂取する」など、自宅でその行為に及んでいる状況をよく耳にする気がします。
何が言いたいのかと言うと、信夫が自害したと云われるこの山は、信夫が住んでいた邸の裏山だったのではないでしょうか、つまりここは信夫の自宅、そしてそれは夫である梶原景季の邸でもあるという事ではないでしょうか。 


こちらのサイトでは場所別による自殺状況の統計データを閲覧できます。これによると、自殺する状況において最も多い場所がやはり自宅で、全体の55.3%を占めます。また統計データでは性別・年齢別でも表されていて、中でも30歳代女性と限定すると58.6%とパーセンテージが上がります。景季の享年が39歳なので、当時、信夫もだいたい同じぐらいの年齢、つまり30歳代女性の枠組みに入るかと思われます。
そもそも時代が違うというツッコミもあるかもしれませんが、ひとつの考え方として、この統計データからは58.6%という高い確率で信夫は自宅で自殺したと考えられるでしょう。そしてその信夫の自宅とはこちらもかなりの高い確率で梶原景季の邸だったと考えても良いのではないでしょうか。
そうすると、景時・景李親子などの主だった一族が滅んだ後、一族の生き残りが景李邸跡で一族を供養する場としてこの地を活用していたのではないでしょうか。つまり仏行寺開創以前からやぐらなどの供養の対象となる造作が元々あったと考えると何か個人的にすんなりいく気がします。 


健保元年(1213)和田合戦において梶原朝景以下数名の一族の名が確認出来ます。また、こちらも一族の生き残りで梶原性全という医学知識に長けた僧侶が極楽寺で忍性と共に活動しています。

仏行寺を通り過ぎると、また山となっていて、辺りは大々的な公園として整備されていますが、付近一画には庚申塔が残されていました。近世でも道として使われていたようです。もしかしたら中世からも道として存在していたのかもしれません。仏行寺前を通る山道が旧街道であれば、武家邸が仏行寺の辺りにあってもおかしくないと思います。

庚申塔などの石塔群



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記事作成  2013年9月11日

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