2013年8月8日木曜日

光明寺 内藤家墓所


光明寺の記事その④です。
光明寺に4m程もある巨大な宝篋印塔が建ち並ぶエリアがあります。こちらは江戸時代の大名で内藤家の墓所です。内藤家は光明寺を菩提寺としていました。鎌倉遺構ではありませんが、この圧巻ともいうべき「遺跡感」に見とれてしまいます。


宝篋印塔が大よそ60基、燈籠が大よそ120基、その他に手水鉢や地蔵などの石造物が一面を埋め尽くしています。


敷地外からも眺められますが、光明寺にお願いすると、境内に入ることのできる鍵を貸してもらえます。

中に入ると鎌倉市街でもよく見かける六地蔵が。

やっぱり至近距離で見ると凄いです。迫力あります。

自分の背丈よりはるか高い石塔群が整列して迎え入れてくれているようでした。

内藤家


内藤家は藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の末裔と云われています。藤原秀郷は平安時代に平将門を追討したことでも知られる武勇に優れた人物として伝わっています。鎌倉に関連するところでは、奥州藤原氏、小山結城氏、比企氏などもその末裔とされています。その秀郷から時代が下って、頼俊の代に内舎人に任ぜられたことから、内舎人の「内」と藤原氏の「藤」をとって内藤という苗字を名乗ることになります。ですからこの頼俊が内藤家の祖と云えるのでしょう。

延岡家の辺り

それから時代が下った義清の代で松平氏に仕えたことから、その孫の家長が徳川家康の下で軍功をたて上総佐貫二万石に封ぜられます。義清の子息世代から庶流が増え始めるので、義清は北条氏でいうところの義時のような存在でしょうか。
「日向延岡」がどうやら嫡流のようで、北条氏でいうところの得宗家でしょうか。その他に「陸奥湯長谷」「三河挙母」「信濃高遠」「志摩鳥羽」「信濃岩村田」「越後村上」といった庶流があるようです。北条氏庶流がそれぞれ~流北条氏と呼ばれるように、例えば「陸奥湯長谷」は湯長谷内藤家、「三河挙母」は挙母内藤家と呼称されているようです。そして光明寺からいただいた資料によると、この内藤家墓所には嫡流の延岡家と湯長谷家、そして系図にはなかった磐城平という一族それぞれの墓所となっているようです。

墓塔群の中に地蔵もまぎれている

各家ごと時代によって石高が変わるものの、延岡家の忠興が八万八千石を領したのが最高で、その他庶流は資料によるとニ~四万石ぐらいだったでしょうか。江戸時代の武士は武士というよりも既にお役所勤めの役人といった感じなので、管轄地で一揆などの不祥事が起きれば大きく減俸されていたようです。鎌倉時代のように、その役職が欲しければその職に就く一族を滅ぼしちゃえばいいじゃんっ!という訳にもいかないので、それはそれである意味大変だったのでしょう。

手水鉢

近世の石造物は刻まれた文字が明確に読み取れるので自分なりの発見が出来ます。
延岡城主 内藤政陽墓

こちらは延岡城主の政陽さんのお墓だということがすぐに分かりますが、「藤原朝臣政陽」と刻まれています。藤原秀郷の時代からとてつもない時間が流れていますが、それでも未だ江戸時代では藤原氏の末裔だということが一種のブランドとなるのでしょう。家康さんは新田義貞を先祖と自称しているので、内藤家の方が格上になってしまいますね。
(追記:内藤家であれば「藤原朝臣」、北条氏であれば「平朝臣」というように、公式な場所で「姓+朝臣」と名乗るのが習わしのようです。)


ちなみに享保五年(1720)に作成された光明寺境内絵図にも当たり前ですが内藤家墓所が描かれています。右端の矢印部分です。現在も絵図のような経路で向かうのですが、昔と違うのは途中に幼稚園があることでしょうか。それと門の向きが少し違うようです。
光明寺境内絵図


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探索期間 2012年8月~2013年5月
記事作成 2013年8月8日

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