2013年8月7日水曜日

光明寺裏山遺跡と謎の万福寺


光明寺裏山遺跡


光明寺の記事その③です。下画像は享保五年(1720)に作成された光明寺境内絵図の裏山部分です。光明寺裏山にある良忠上人廟所に隣接する中学校辺りには明治時代まで拝殿があったそうです。実際にも下境内絵図「2」の部分には拝殿・地蔵窟・霊骨窟の存在が記されています。ちょっとこの境内絵図裏山の位置関係が現在の実際の地理関係と一致しないのではないかという疑問を「光明寺旧境内」の記事でも述べましたが、答えが見つからないので、その辺りは細かく考えず先に進みます。

光明寺境内絵図 裏山部分 ①開山廟所 ②地蔵巌窟・霊骨窟・拝殿 ③祖師堂(本堂)

良忠上人廟所手前には入口を塞がれた2つの横穴がありました。『鎌倉の古絵図』に「地蔵窟はほぼこの位置に現存」とあったので、この塞がれた2つの窟穴を指していると思われます。

良忠上人廟所
良忠上人廟所にある窟穴

そして現在光明寺境内に安置されている石造地蔵菩薩が、その地蔵窟に収められていたもので、「発願満福寺住侶教義 勧進聖尚養寺常住西連 正中二年乙丑九月二十四日仏師沙弥」などの碑文が刻まれています。これら碑文から、この地蔵像の発願者が満福寺の教義で、勧進役が尚養寺の西連、そして正中二年(1325)に地蔵が造立されたことがわかります。

光明寺境内にある石造地蔵菩薩

謎の万福寺


「地蔵像の発願者が満福寺の教義~」とありますが、満福寺の地蔵が何故ここにあるのでしょう。色々調べてみると『鎌倉廃寺事典』に『金沢文庫古文書』に記されている万福寺を「和賀江嶋にあった万福寺であろう」という記述がみられます。ですからこの碑文に刻まれた満福寺は、義経の腰越状で有名な腰越の満福寺ではなく、和賀江嶋付近にあったとされる万福寺なるお寺を指しているようです。さらに『中世都市鎌倉の風景』では、光明寺が移転する前に極楽寺の末寺であった万福寺がこの地にあったとあります。なんとこの万福寺なるお寺は極楽寺の末寺で、しかも現在の光明寺の地に存在していたようです。光明寺の寺伝によると、佐介ヶ谷に建てられた蓮華寺が寛元元年(1243)にこの地に移り光明寺となったとありましたが、それ以前にこの律宗の万福寺がこの地にあったのでしょうか。極楽寺の忍性が鎌倉入りしたのが弘長元年(1261)で、極楽寺を開山したのが文永四年(1267)です。光明寺が現在の地に移ってきた寛元元年(1243)以前に極楽寺の末寺が存在するはずもありません。どういうことでしょう。これにはもう少し他の資料に目を通す必要があるようです。(ちなみに鎌倉寺社は時代によって当て字も様々なので「万福寺」でも「満福寺」でもどちらでもいいようです。腰越にある満福寺と混同するので、ここでは万福寺で統一します。)

良暁が記した異なる光明寺縁起


『鎌倉市史 社寺編』(以下市史)によると、良忠の息子で良暁が記した正中二年(1325)の『良暁述聞制文』(以下制文)では「佐介谷本悟真寺今号蓮花寺」とあります。つまり正中二年(1325)に佐介ヶ谷にあった悟真寺がこの時蓮花寺と号することになったと記されています。この文献では寛元元年(1243)に現在の地に移ったとされる光明寺が、鎌倉時代末期において未だ佐介に所在していることになります。そればかりか、光明寺という寺号が正中二年(1325)の時点で未だ現れていません。この良暁の制文を信じれば、鎌倉が都市として機能していた時代に現在の光明寺の地に光明寺が未だ移転していないことになります。また、記述からは光明寺の前身である蓮華寺と正覚寺の前身である悟真寺が同一の寺となってしまうという新たな謎も生まれてきてしまいました。ちなみに光明寺という寺号がはじめて文献・資料に現れるのは明応頃(明応年間1492~1501)と大きく時代を下ります。

佐介ヶ谷に残るひな壇状地形

光明寺開基は大仏朝直か


そして更に、同じく市史によれば、良忠の弟子である道光が記した『然阿上人伝』(以下上人伝)には、大仏流北条氏の朝直が良忠に帰依し、佐介ヶ谷に悟真寺を建てたとあるそうです。光明寺の縁起では、蓮華寺の開基は四代執権の北条経時とあります。制文から察すると、悟真寺とはつまり蓮花寺の事となるため、上人伝の記述からは光明寺の開基は大仏朝直となってしまいます。光明寺の寺伝とその他古文献では、寺社移転の時期から開基となる人物まで大きく事実が異なってしまいます。

良忠上人廟所にある北条経時墓

文献資料の信頼性


光明寺は『鎌倉浄刹光明寺開山御伝』(以下開山御伝)という光明寺に伝わる資料を寺縁起の参考にしているようです。市史では開山御伝は「後世の潤飾が多い」(後世の者が)「道光に仮託(本人に成りすます)して作ったもの」と記し、制文や上人伝の方が資料として価値が高いといった旨が記されていました。

こちらの記主庭園や内藤家墓所など光明寺は江戸時代に所縁のあるものが多い

市史の云うとおり、制文や上人伝などの信頼性の高い資料を信じれば、光明寺は正中二年(1325)の時点で未だ佐介に所在しているため、極楽寺の末寺である万福寺が鎌倉期にこの地にあってもおかしくない事になります。しかも和賀江嶋と現在の光明寺の地はかなりの至近距離です。更に和賀江嶋を管理していたのが極楽寺です。和賀江嶋を直接管理するための極楽寺支社(万福寺)がここにあっても不思議ではありません。そしてこれらを証明する唯一の遺品が、地蔵窟にあったあの地蔵像となります。ただ逆に言うと、証拠がこれだけしかないので、万福寺がこの地にあったと専門家先生方も断定はできないようです。

和賀江嶋

光明寺縁起に関する謎は市史だけでなく、比較的近年に編集されたと思われる鎌倉市教育委員会の調査報告書でも検証の先送り状態となっていました。ただ、良忠が荼毘に付された地として伝わる正覚寺について『中世都市鎌倉の風景』では、良忠が亡くなった時に(現在の正覚寺の地に)悟真院が建立されたため、佐介の悟真寺が蓮華寺と寺号を変えたのではないかと推測しています。また光明寺としても、周りの専門家がとやかく何を言おうと、自社に伝わる伝承をないがしろに出来ない事情もあるのでしょう。そういえば、浄土宗と律宗は鎌倉期では協調路線を歩んでいたので、寺域を共有する可能性も考えられるのかもしれません。

光明寺からも近い正覚寺



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探索期間 2012年8月~2013年5月
記事作成 2013年8月7日

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