2013年8月1日木曜日

住吉城跡 抜穴編


『鎌倉公方九代記』にある「~詰の城より後の山へ抜穴を拵へ・・」という記述から、住吉山が城郭として機能していた時代に既に抜穴が作られていたことが分かっています。ということで、下地図画像の①~④は、なんと住吉城跡丘陵部に存在する隋道で、住吉城の抜穴として使われていたのではないかと考えられるものです。今回はこれら隋道が住吉城跡の抜穴だったのかというテーマで検証してみました。

住吉城跡 抜穴

隋道(抜穴)部分を赤のラインで示しました。以下は『鎌倉市史 考古編』(以下市史)でこれら隋道を説明していた記述です。

①正覚寺背後の峰中腹を貫くトンネル
②住吉社背後を貫くトンネル
③住吉社境内から幣原邸へ抜けるトンネル
④幣原邸から峰中腹を貫いて東側へ抜けるトンネル

住吉城跡丘陵部の字名を示す番号をプロットした地図画像を掲載しておきます。

①正覚寺 ②住吉社 ③げんじがやと ④海前寺 ⑤神明社 ⑥小坪寺 ⑦ぼんばたけ ⑧扇山

地図画像①の正覚寺と②住吉社は同じ境内です。市史にもありましたが、正覚寺背後とは住吉社背後と同じ意味合いになります。そして気になるのが隋道の説明にある「幣原邸」ですが、その幣原さんという珍しい苗字からも、ネットで調べると一発で出てきます。なんと第44代総理大臣ですね。こちらの三菱グループのHPで確認できます。幣原喜重郎(しではら きじゅうろう)は、明治5年(1872)生まれで、三菱グループの創設者で有名な岩崎彌太郎の三女と結婚しています。その幣原元総理が、「げんじがやと」というこれまたお殿様の邸跡とも伝わる地に自宅、もしくは別荘を構えていたようです。

くらやみやぐら


市史によると、この時、幣原邸への通り抜けが許されなくなったので、「住吉社背後を貫くトンネル」が作られたとありました。住吉社からぼんばたけと呼ばれる平場に連絡する隋道(抜穴地図の②)がこの時点で、近現代のものであることが判明してしまいました。これは「くらやみやぐら」と呼ばれるもので、他の鎌倉遺構とは一味違う体験を出来た個人的にも思い入れのあるものだったたけに残念でした。実際にも、私も正覚寺の方にお話しをうかがったところ、明治もしくは大正時代に作られたものだとおっしゃっていました。くらやみやぐらの記事で詳しく紹介しています。


げんじがやと


そして幣原邸(げんじがやと)には2本の隋道(抜穴地図の③と④)が通っています。げんじがやとは民有地でしかも孤立した地形であるため、近づくことはできません。したがって抜穴地図④の「幣原邸から峰中腹を貫いて東側へ抜けるトンネル」は一切謎のヴェールに包まれています。一方で③の「住吉社境内から幣原邸へ抜けるトンネル」ですが、住吉社境内に踏み跡のような部分があったので、それをたどって藪を掻き分けて行くとありました。怪しい岩壁が・・


壁面の下に少し隙間が残されていました。多分これのことだと思われます。幣原邸への通り抜けが許されなくなったと市史にありましたが、正確には幣原邸への通り道を遮断したようですね。



住吉隋道


こちらが抜穴地図①の「正覚寺背後の峰中腹を貫くトンネル」です。ちなみに正覚寺背後というと正覚寺境内のようにも感じますが、正覚寺を出て坂を登りきった丘陵尾根付近にあります。「住吉隋道」とご丁寧に記されていて、見た感じ近現代で作られたようにも思えます。

住吉隋道

市史では住吉城跡の項の最後に、いまいちはっきとは明言していないものの、くらやみやぐら以外の隋道を以前からあった道だと記していました。ですからこちらの住吉隋道は元々あった隋道を近現代工法で手を加えたようです。画像では平坦な道に見えるかもしれませんが、これが意外に傾斜があります。この出口の見えるトンネルを正覚寺方面から抜けると、134号線の真上に出ます。この山が以前はどんな姿だったのかと想像することは困難を極める景観です。


まとめ


住吉山にある4本の隋道のうち、住吉城の抜穴として可能性の高いものは「くらやみやぐら」を除く3本で、そのうち「げんじがやと」に連なる2本は廃路、もしくは確認不可。最後に残った「住吉隋道」と記されたトンネルが旧態を残していないものの住吉城の抜穴として確認できる唯一のものとなります。


鎌倉遺構を調べていくとよくある事ですが、結局残されたものなどほとんどない事が分かってしまいます。楽しかった探索も最後は寂しい気持ちになります。そんな私をなぐさめてくれるかのように、鎌倉のひな壇状地形が好きな私のためなのか、何故かコンクリートで固めた丘陵壁面がひな壇状になっていました・・



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探索期間 2012年8月~2013年5月
記事作成 2013年8月1日

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