2013年7月4日木曜日

明月院 明月谷


明月院の記事その②です。
下地図画像は、明月谷(めいげつがやつ)です。画像の①が明月院の所在地で、②が明月院の開基で上杉憲方(うえすぎのりかた)の邸跡と云われる管領屋敷跡と呼称される一帯です。画像③位置では、丘陵部の崩落防止に伴う工事によって既に失われていますが、やぐらが発見されています。管領屋敷の西側であることから西管領屋敷やぐら群と鎌倉市教育委員会の調査報告書で呼称されていました。ですから厳密に言うと、②の管領屋敷跡の碑がある場所を西管領屋敷に対して東管領屋敷とも云います。現在谷戸の入口には横須賀線が通っていますが、往時では鎌倉の重要な幹線道路である山内道に面した好立地です。さすが管領様の邸跡ですね。

Google Map 明月谷

前回の記事でも少し触れましたが、明月院の本寺である禅興寺が鎌倉期では現在の明月院位置(画像①)にあったと思われます。また、それ以前には北条時頼の最明寺がその地にあったと考えられます。そして更に、明月院の寺縁起によると、首藤(すどう)氏の菩提供養の地として永暦元年(1160)に明月庵が既に創建されていたそうです。ただ、この辺りは『鎌倉市史 社寺編』など主だった専門書では一切その事に触れていません。そして、どの時代の建物にも「明」という字が使われています。もしかしたら当時から「明」という字が付く地名だったのかもしれませんね。

明月谷

最明寺北亭を探せ!


そして北条氏ファン(あんまりいないと思いますが)であれば、気になるのが、最明寺北亭と云われる時頼が晩年を過ごした別荘の位置でしょうか。その名称からも最明寺の北にあったはずなので、単純に上地図画像①の明月院の北である画像④の位置かと思われます。実際にもここにはやぐらが残されていました。

地図画像④から⑤の間にある民家敷地裏のやぐら

しかし『鎌倉市史 社寺編』では、当時の陰陽師が若宮大路を子午線として南北の傾きを測っていたことを発見しています。若宮大路は東に27度ズレているので、現代の方角とは誤差が生じてしまいます。ですから当時の云う北とは、現在の方角でいうところの北東寄りとなります。ちょっと分かりやすいことに、この明月谷の形状が若宮大路が指す南北の傾きと大体似ています。つまり地図画像の③④⑤⑥辺りを繋いだ線が当時の子午線の傾きとなります。そうすると、現在の明月院位置①の北となると⑥⑦辺りが最明寺跡と考えられます。が、しかし、これもそう簡単に話しは終わらず、『吾妻鏡』によると、ここ明月谷に将軍を迎え、正嘉元年(1257)には蹴鞠の会、正嘉二年(1258)には競馬を行ったりしていることが記されています。市史でも述べていましたが、競馬をやるとなると幾分広いスペースが必要なので、最明寺及び北亭は谷戸奥ではなく山内道(画像②方面)寄りである可能性が高いようです。以上を勘案すると、最明寺は画像②の西管領屋敷にあったと推測され、更に当時の東に27度ズレた北となる画像④か⑤の辺りが最明寺北亭になるかと思われます。

貫通したやぐら

上記しましたが、地図画像④の辺りには民家裏にやぐらが残されており、更に明月院対面辺りに進むとこれまたやぐらが数基民家敷地内に確認できます。そして⑤の位置は、地図画像だとただの緑地に見えますが、平場となっていて、昔からそうなのか分かりませんが、とにかく現在空地になっています。 丘陵部には若干石切りの跡がみられます。そして、この辺りに庚申塔などの石塔が並べられています。


私なりに鎌倉中を歩いた限り、この手の石塔がある場合、その場所が大抵にして道、もしくは道跡である事がほとんどです。もちろん石塔の前面は谷戸の奥へと続く道となっていますが、丘陵部をよ~く観察すると、ありました!丘陵を登って行く道筋が確認できました。


早速行ってみると、見事な掘割状となっています。しかもキレイです。こんな道はガイドブックにも記されていないのに、どうしてこんなに現在でも整備されているかのようにキレイなんでしょう。もしかしたら私有地かもしれません・・ そうだったら本当に申し訳ありません。


鎌倉期の切通しは、有事の際に封鎖できるよう道幅がそれ程なかったそうですが、まさにそんなセオリーに当てはまるがごとくの切通し路です。幅2m、高さ1mぐらいでしょうか。また、途中には平場も確認できます。丘陵頂部は残念なことに住宅地となっていますが、ここから今泉に、そして天園・六国峠ハイキングコースとなっている当時の尾根道にアクセスできたんじゃないでしょうか。(もしかしたら現在も出来るのかもしれません)


北条時頼廻国伝説


最明寺殿と呼ばれた時頼には、僧侶に扮して諸国を廻ったと云われる「廻国伝説」が残されています。ただ、命尽きるその時まで政治の中枢にいた時頼がそんな事をしている暇などなかった、というのが専門家先生方の大方の意見です。確かにそうだとは思いますが、ここは妄想を膨らまして、この裏口とも云える切通し路から誰にも見つからず僧侶に扮した時頼が今泉を抜け武蔵国などへ向かっていたかも・・ なんて考えてみました。ちなみに、私の地元近くにも「おいと坂」という時頼の廻国伝説にまつわる伝承が残された場所があります。時頼がそんな近くまで来ていたなんて・・とは思いますが、どうやら時頼のスパイが諸国を廻っていたという説が今のところ有力だそうです。残念です。

地図画像⑤の辺りにある平場 空地

また地図画像⑥辺りから⑦にかけて、特に丘陵部に造作がみられます。周辺地形からも石切りの影響のようですが、場所が場所だけに塔頭跡としての造作もあるのかもしれません。

谷戸奥丘陵部 地図画像⑤~⑥の間辺り 石切り跡のよう 

そして地図画像の⑦は石切り場跡です。掘り下げられたかのように地面からかなり低い位置にその跡がみられるので、現在のこの辺りの住宅地は土地が盛られているようです。また、石切り場跡があるということは、この辺りの景観も昔は随分違ったのでしょう。谷戸奥は近現代において大々的に宅地化されたようです。

石切り場跡 結構大きめだった



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探索期間 2011年8月~2012年9月
記事作成 2013年7月4日


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