2013年7月2日火曜日

報国寺 宅間谷


報国寺境内絵図


報国寺の記事その②です。
絵図は寛政三年(1791)に作成された報国寺境内絵図です。境内の伽藍配置に、塔頭などが詳細に描かれています。絵図から察するに、往時では報国寺のある宅間谷全域が境内だったようで、現在の報国寺は白線で囲った客殿・庫裡などがあった一部分に過ぎません。この白線で囲った報国寺境内以外は現在では住宅地となっています。また、山頂に「家時墓」とありますが、裏山である衣張山も往時では境内であったようです。


絵図にみる境内の様子が近世に作成された『鎌倉巡礼記』の記述からはあまりにもかけ離れているため、これらは往時を偲んで作成されたものと考えられています。『鎌倉の古絵図』によると、仏殿及び迦葉像が明治二十四年の火災で焼失し、大正十二年の震災で本堂が全潰するなど、比較的近年にこの絵図に描かれていた境内建物が失われました。そして竹庭で有名な報国寺ですが、なんと絵図にも同じ場所に竹が植えられている様子が描かれているので、以前から竹庭であったようです。


絵図からも谷戸の中央に川が流れていることが分かります。現在でもこの川らしき水路が確認できます。

宅間谷


宅間谷(たくまがやつ)では少なくとも10基以上のやぐらが発見されています。崩落防止のための工事で失われたり、民家裏の丘陵に所在しているものも多く、あまり確認することはできません。『鎌倉市史 考古編』によると、副室を持つものや羨道のある鎌倉期のものがあったと記されていました。また、やぐら付近の平坦面からは、掘立柱建物址、井戸址、溝状遺構、土坑、かわらけなどが検出されており、更にこれらの遺構群は13世紀後半以降に構築され14世紀後半までの使用期限が推定されるそうです。


地図上(ページ最下部)に境内絵図に描かれた塔頭跡を推定してマーカーを置いてみました(地図上の紫のマーカー)。更に宅間谷に点在するやぐらを地図上にプロットすると、それら塔頭跡とやぐらの所在地がうまいこと重なり合っています。現状の宅間谷としては、特に慈眼院跡から浄蓮庵跡までの丘陵部には、何なのかよくわからないけど何となくそれらしい雰囲気が漂っています。ただ報国寺の裏山となる衣張山が大々的な石切り場とされていたので、そうした影響もあるのかと思われます。


金剛窟地蔵尊


そして特筆すべきは、絵図にも描かれた地蔵堂です。宅間谷には巡礼路と呼ばれる逗子に抜けられる旧道が残されています。一見さん観光客なら誰もが「入っていいのかな?」と悩んでしまうような民家の隙間を通って丘陵を登って行きます。


すると、絵図の通り山腹辺りに、平場があって、壁面にやぐららしき横穴がいくつか見られます。中でも台座上に立つ等身大の地蔵立像が彫られたものがあります。これを金剛窟地蔵尊と云うそうです。鎌倉にあるやぐらの中でも地蔵立像が刻まれているのはこの一例だけだと『鎌倉市史 考古編』にありました。


風化のため細部は分かりません。またこれがどのような所以によるものなのかも分かっていないようです。画像では伝わりづらいかもしれないので改めて言いますが、これは「等身大」サイズです。何も知らずに発見した人はさぞかし驚いたことでしょう。ここから巡礼路と呼ばれる道が逗子方面に続いています。近世の庚申塔が道端に所々置かれていて、ハイランドで一旦途切れますが、また名越の大切岸から連なる丘陵部に続きが残されています。

地蔵やぐら周辺の地形

更に絵図には地蔵堂の下に東禅院があって、そこから登ってこれる階段が描かれています。ほぼ辺りは住宅地となっているためその跡形もありませんが、丘陵部には掘割状が確認できます。登り道の名残りではないかと思われます。

丘陵部尾根から見えた掘割

そういえば、宅間谷の入口にある華の橋には庚申塔などの石塔が置かれていました。ということは近世では色んな人がこの辺りを往来していたようです。現代人である我々は山道のルートを選択肢として考えませんが、巡礼路は確かに浄明寺から逗子方面に行くには便利な道筋だと思います。


宅間氏 上杉氏


宅間谷の宅間とは、詫間・琢磨・沢間とも記され、元暦元年(1184)、源頼朝の命で京都から下向した絵師の宅間為久が居住していたことに地名が由来すると云われています。宅間為久は、京都宅磨派の宅間為遠の三男で、聖観音像や勝長寿院の壁画を製作するなど、子の為行と共に鎌倉宅磨派の祖と云われています。『吾妻鏡』には京より下ってきた将軍藤原頼経の随行者として宅間為行の名がみられますが、これを為久の子為行と考えられています。鎌倉宅磨派の絵師は、その後室町期までその活躍が確認されています。 鎌倉の寺社に所蔵されている絵画の多くは作者不詳のものも多いのですが、これらは鎌倉宅磨派に描かれたものも多く存在すると考えられています。

宅間谷丘陵部巡礼路から

上杉能憲(うえすぎよしのり)は、応安元年・正平二十三年(1368)に憲顕(のりあき)の跡を受けて関東管領となり、永和四年・天授四年(1378)に亡くなるまでその職にあたっていました。その間に義堂周信を開山に迎え西御門に報恩寺を開創しています。その義堂周信の日記『空華日用工夫略集』には、能憲の死に際して「琢磨谷の屋敷を訪れた」と書かれていることから、少なくとも14世紀末までは、宅間谷に上杉能憲及び宅間上杉氏の邸があったと考えられています。


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カテゴリー 探索記事(エリア別 浄明寺
記事作成  2013年7月2日

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