2013年7月17日水曜日

妙法寺


山号寺号 楞厳山妙法寺
建立   延文二年(1357)
開祖   日蓮
中興開山 日叡



妙法寺縁起


中興開山の日叡(にちえい)は、護良親王の御子で幼名を楞厳丸(りょうごんまる)と云います。後に妙法房と称したので、これらを山号寺号としたと伝えられています。室町期では塔頭が五院ありましたが、江戸期では本堂もなく仮堂のみがあった状態でした。文政年間(1818~1830)に肥後の細川氏によって本堂などが再建され、江戸幕府十一代将軍の家斉が参拝するなど、この時に寺勢を回復したようです。明治三十年頃までは将軍のための「お成りの間」があったそうです。

法華堂

『かまくら子ども風土記』では、日蓮の小庵が法難で焼かれた後、法華堂を建て本圀寺(ほんこくじ)となり、その本圀寺が室町時代はじめに現在の京都に移転し、その後日叡が入山したとあります。本圀寺跡の伝承は長勝寺にも残されていて、更に伝説の松葉ヶ谷法難跡に関しても妙法寺・安国論寺・長勝寺それぞれに同じ伝承が残されています。

本堂
妙本寺と同じく朱塗りの仁王門

妙法寺の地形


苔寺とも呼ばれる妙法寺ですが、裏山をこの苔の生した趣のある階段で登って行きます。興味深いことに、境内裏山は大よそ4フロアの平場で構成されています。尾根部分の護良親王墓地も含めると5段となります。それぞれの山腹に空地がみられますが、釈迦堂跡、松葉ヶ谷御小庵跡などがそれぞれあったようです。上記しましたが、塔頭が五院あったので、それらの跡もこの空地に含まれるのかもしれません。

松葉ヶ谷御小庵跡 平場

尾根を伝って行けば、当時ではそのまま名越周辺を移動出来そうです。ひな壇状に造成された平場の件も併せて考えると、山城としても機能しそうですが、そのような事に言及している資料はありませんでした。
松葉ヶ谷御小庵跡から尾根を伝うと、日叡や日蓮の墓と云われる石塔群が置かれた場所があります。


お隣の安国論寺のある谷戸を奥に入って行くと、化生窟(けしょうのいわや)という日蓮が妖怪を退治したと云われる横穴がありますが、こちら妙法寺の横穴も少し字が違いますが「化粧窟」と云うそうです。もしかしたらこれも同じ伝承を持つものなのかもしれません。


大塔宮護良親王


日叡の父となる護良親王(もりよししんのう)は、建武新政の成就に大きく貢献しましたが、その後、足利尊氏との反目から父である後醍醐天皇に捨て駒とされた感もある悲劇の皇子です。二階堂に幽閉されその後殺害されています。

護良親王墓

境内裏山最上階の尾根部分に護良親王の墓があります。多分ここが妙法寺の特等席なのでしょう。空が澄んでいれば護良親王の墓からは富士山が見えます。ちなみに護良親王の墓は、理智光寺跡にもあります。『松ヶ丘東慶寺誌』によると、理智光寺辺りは近世まで東慶寺の寺領だったらしいので、そちらは親王の妹で東慶寺にも住した用堂尼が建てたものと思われます。

護良親王墓から見える景色


苔寺とも云われるように、緑を基調とする境内がとても素敵でした。ただここ数年は雨量が少ないため苔のお手入れも大変だそうです。

法華堂 釈迦堂跡平場


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カテゴリー 探索記事(エリア別 名越
記事作成  2013年7月17日

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