2013年7月10日水曜日

大仏坂


鎌倉中心部から大仏を通り過ぎ、常葉・腰越などを経由して藤沢方面に向かう道があります。現在の県道32号線です。大仏坂はこのルート上丘陵部に旧態を留めた形で残されています。

Google Map 大仏坂 
①火の見下口 ②大仏裏ハイキングコース ③極楽寺馬場ヶ谷

鎌倉時代に大仏坂は存在したのか?


『吾妻鏡』では「大仏坂」という固有名称が現れません。また、新田義貞の鎌倉攻めを記した『太平記』では、この新田勢が鎌倉の西側である巨福呂坂、化粧坂、極楽寺坂の三方から攻め入ったとあります。ここでも大仏坂が記されていません。鎌倉時代に大仏坂はなかったのでしょうか。

火の見下口入口にある切岸 石切り跡ややぐらがみられる

鎌倉市教育委員会の複数の調査報告書でよく引用されているのが、『吾妻鏡』養和元年(1181)九月十六日条の記事にある、主人足利後綱の首を持参した従者の桐生六郎が鎌倉に入ることを許されず「直に深沢を経て腰越に向かう」よう指示されたという一文です。これを専門家先生方は大仏坂を経由するルートを指していると考えているようです。ただ、一部でこれを化粧坂だとする書もみられました。また『吾妻鏡』に、大仏鋳造に関する「相模国深沢里の大仏堂事始め」という記事がみられることから、当時は大仏及びこの大仏坂の辺りも山崎・梶原・常盤などをも含む深沢の一部とされていることがうかがえます。したがって、この上記した広大な地域を結ぶ道があったと推測されています。以上の事から、大仏坂という名称が古文献などに記されてなくとも、大仏坂を経由するルートは鎌倉時代からあったと考えるのが妥当なようです。また、開削時期も不明ですが、上記した記事の年代から少なくとも大仏造立以前からあったものと推測されます。


その後、江戸時代では『新編鎌倉志』などの文献に「大仏坂」「大仏切通」などの記述がみられるようになります。同じく近世の『鎌倉攬勝考』には「深澤切通」と記されているそうです。


切通し路は、江戸期や明治時代に整備され、大々的に掘り下げられたそうですが、火の見下側の切通し路は箇所によっては尾根と同等の高さであるため、この江戸期や明治時代に整備されたというのは、大仏裏ハイキングコース寄りの箇所に言及したものではないでしょうか。火の見下側付近からは、少しコースアウトすると、平場にやぐらが3基ほど確認できました。少なくともこの辺りは鎌倉期の遺構が残されています。ただ、現地の案内板に、江戸時代に経路変更があったとも記されており、鎌倉の歴史のごとく、結局本当のところは分からないといったところでしょうか。

大仏坂より木々の隙間から見えた景観

地理・地形的な観点から、大仏坂周辺には、極楽寺側には一升枡と呼ばれる城郭に、常盤には北条氏の別業である常葉亭が当時は所在していました。更に、現在は大々的な宅地化で跡形もありませんが、仲ノ坂、東坂と呼ばれる大仏坂に繋がる道が常盤方面から連なっていたようです。また、極楽寺の前身である北条重時の持仏堂や大仏流北条氏の別業が深沢に、つまり現在の大仏地区にあったとされています。少なくともこの辺りが交通の要所であったことは確かなようです。

大仏裏ハイキングコース寄り
極楽寺馬場ヶ谷との接続部から眺めた県道23号線 直下にトンネルが通っている



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探索期間 2011年8月~2013年5月
記事作成 2013年7月10日

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