2013年6月5日水曜日

本願御墓堂跡


月影地蔵


極楽寺境内絵図本願御墓堂と記された箇所がありますが、これは現在の西ヶ谷にある月影地蔵がある場所に比定されます。

極楽寺境内絵図 ①本願御墓堂 ②宝塔 ③極楽寺境内 ④聖福寺ヶ谷

地蔵堂は、月影ヶ谷から移動してきたようで、境内絵図には、未だそちらにあったのが記されています。堂内にある地蔵は江戸期のものです。 また、地蔵堂境内には、江戸期の石塔の他、五輪塔などがみられました。

月影地蔵

本願御墓堂とは


ところでこの本願御墓堂とは誰の墓なのでしょう、また、本願とはどういう意味なのでしょう。こちらコトバンクによれば「本願とは仏や菩薩が過去世の修行の期間に立てた誓願」とありました。 したがって、本願の意味が分かったところで、ここ本願御墓堂とは誰の墓堂であったのかは分からないようです。 墳墓堂とも法華堂とも思われるそのお堂があったとされるこの地に一体誰の墓があったのでしょうか。

月影地蔵奥にある本願御墓堂跡

極楽寺の仏もしくは菩薩といえば、まず思いつくのは忍性ですが、忍性の墓は極楽寺境内にあります。そこで、同じく律宗の極楽寺末寺であった称名寺の結界絵図を見ると「本願同谷殿」と記された箇所に北条実時の墓がありました。このことから「本願なんたら~」とは、開基大檀那などの墓を指すのではないかと思われます。が、しかし『鎌倉市史 社寺編』によると「忍公墓と称するものが本願御廟」とありました。墓と廟の違いがあるものの、同書に従うと、本願御墓とは、忍公と称される極楽寺長老三世順忍を指すようです。また、その本願御「墓」ではなく本願御「廟」と社寺編では記されていますが、この辺りも含めてちょっとあやふやでよく分かりません。もの凄い雑な言い方になりますが、とにかくこの地には、極楽寺に大きく影響を及ぼした誰かの墓があったようです。

谷内は段状にいくつもの平場が確認できる

この谷にある墓地には無縁仏となった古い五輪塔がみられます。また、ちょうど極楽寺旧境内の丘陵を挟んだ真裏となっていることからも、少なくとも当時から霊廟のような土地柄であったと思われます。そして特筆すべきは、この谷に大よそ五段の平場が施されていることでしょうか。コンクリートで舗装されている部分も多いものの、やぐらと思われる横穴や上記したように五輪塔が置かれた墓地がある事からも、元々このような地形をしていたのではないかと思います。


丘陵頂部に向かえるようで、こちらも現代の造作がみられますが、極楽寺地区全体にみられるような、元々あった地形をそのままコンクリートで固めたような状態となっています。

丘陵頂部は尾根道の交差点となっていて、このまま聖福寺ヶ谷に下りて行くことも出来ますし、稲村ヶ崎方面、または反対の鎌倉山方面にも行く事が出来ます。

丘陵頂部尾根

聖福寺ヶ谷側


本願御墓堂跡の真裏である聖福寺ヶ谷側の丘陵が、なんとこちらも平場ひな壇状に施されています。 平場というには少し狭く、道跡のような形状ですが、段々になっているのが確認できます。 また、これら段状に紛れた古道跡のような道筋もありました。現在ある聖福寺ヶ谷に下りてゆける舗装された道とは別に、こちらも谷に下りて行く事ができます。

聖福寺ヶ谷側の丘陵 ひな壇状になっている

本願御墓堂跡は、極楽寺旧境内、つまり現在の稲村ヶ崎小学校の裏山となる丘陵部分を挟んで背中合わせとなっている状態です。この共有する丘陵部では、尾根に細かい堀切土塁状などが確認出来ました。


この辺りはハイキングコースのような形で整備されているようです。木々が多いものの尾根からすぐ下に聖福寺ヶ谷が見渡せます。


新田義貞の鎌倉攻めの際、新田勢は、陣鐘山、もしくは聖福寺の近くに陣を張ったそうなので、この辺りはギリギリ鎌倉圏内といった感じです。 当時の情勢を想像すれば、もうこのすぐ下に敵が鎌倉に侵入しようと大勢いる訳ですから、この辺りは城郭機能を有する色々な造作が成されたと考えても間違いではないのでしょう。この丘陵一帯にみられるひな壇状地形などはそうした当時の名残りなのかもしれないと思いました。

尾根道右側の土地の高まりの向こうにまた平場がある

ハイキングコースを鎌倉山方面に歩くと、ただの削り残しなのか分かりませんが、平場土塁状の地形がみられます。極楽寺境内絵図では、かなり奥まで寺院が描かれているので、そうした寺院跡なのかもしれませんし、場所が場所だけに城郭としての地形の名残りなのかもしれません。

ハイキングコース尾根から眺めた聖福寺ヶ谷

こうして鎌倉の外郭となる山稜を歩くと、当時の新田勢が必ずしも極楽寺坂から攻めてきたとは限らないと感じました。鎌倉の西側丘陵部全体がそうした攻守の場となったのではないかと思います。日本全国に所領を持つ北条氏を滅ぼしたとなれば、手柄をたてれば恩賞にありつけるのは確実です。当時の朝廷側についた関東武士達のそのモチベーションは、特売セールなどに群がるオバさん並の意気込みがあったのでしょう。現代人の私でさえ、そうした出世がかかっていれば、この丘陵を下から登ってこれそうな気がします。



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記事作成  2013年6月5日

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