2013年6月6日木曜日

極楽寺熊野三社


熊野神社と忍性


紀伊半島にある本家の熊野神社では、本宮新宮那智の三社を総称して熊野三山と云います。日本各地に三千社以上あると云われる熊野神社ですが、鎌倉にも浄妙寺朝比奈峠坂などいくつも存在します。極楽寺地区では新宮ヶ谷に熊野神社があります。谷戸の名称からも、元々は熊野新宮社として、忍性が勧請したようです。律宗では行基聖徳太子などの信仰がみられましたが、どうやら忍性は熊野信仰をも取り入れていたようです。

熊野神社を専門に扱っているこちらのサイト(外部サイト)では 「熊野は山岳宗教の中心地でありながら、女性の参詣を禁じなかった」「ハンセン病者をも受け入れた」 などなど、熊野信仰が忍性の救済活動そのものと思える程に類似点が多々みられました。これは、忍性が熊野信仰を取り入れたと簡単に言及できるものではなく、忍性及び極楽寺グループが熊野信仰の影響を大きく受けていたとも考えられるのではないでしょうか。

極楽寺熊野新宮


こちらが極楽寺の新宮ヶ谷にある熊野神社。

下の極楽寺境内絵図にも熊野新宮と記された建物がみえます。熊野新宮の近くに描かれた拝殿が現在の熊野神社位置かと思われます。松尾剛次先生の著書によれば、新宮の本地仏は薬師如来と考えられているので、忍性が病者救済のために新宮社を選んだのかもしれないとありました。

①熊野新宮 ②拝殿 ③極楽寺境内

熊野神社背後には切岸が残されており、少しだけその趣きを感じる事が出来ます。また、裏山へ続く道跡のような造作も近くにみられます。さすがにここは明らかな民有地のようだったので、それ以上の詮索は止めておきました。


極楽寺十二所権現


そしてこちら、境内絵図の馬場ヶ谷十二所権現と記された建物がみられます。こちらは現在跡形もなく、その跡地も定かではありません。

①十二所権現 ②極楽寺境内

鎌倉の字名である十二所がここにあるのかと疑問に思って調べたところ、 一番分かりやすかったのが、こちらコトバンク(外部サイト)の「熊野三山の本宮に勧請して祀った十二の権現」という説明でしょうか。つまりとにかく、十二所権現とは熊野社であり、しかも十二所とは鎌倉の固有名称ではなかったという事が分かります。しかも上記した熊野三山の一つ「本宮」が出てきましたが、こちら名取市HPの熊野三社関係のページ(外部サイト)にも「本宮社は、本宮十二神とも称されている」と記されています。これが本宮であってほしいのですが、これだけの資料で十二所権現熊野本宮社とは、ちょっと早合点でしょうか。ただ、少なくとも十二所権現が熊野社であるのは間違いないようです。そして、新宮、それから微妙な本宮ときて、残るもう一つの「那智」が発見出来ました。

極楽寺熊野那智


こちら境内絵図の極楽寺境内本願御墓堂に隣接する谷に「熊野那智」と記されています。その下が読み取りづらいのですが、那智の本地仏が「飛瀧権現」であるそうなので、そう言われると確かに飛瀧権現と読み取れます。その下に「○○○瀧池」と記された滝が描かれています。○は読み取れませんでしたが、とにかく本家の那智の大滝のような、もしくはそれに似せた滝があったと考えられます。

①熊野那智 飛龍権現 ②龍池 ③拝殿 ④本願御墓堂 ⑤極楽寺境内

この場所は極楽寺本願御墓堂の裏に隣接しているので。聖福寺ヶ谷に比定出来ます。 しかし、鎌倉のこんな場所にあの有名な那智の大滝みたいな景観があったら、ちょっとしたスポットになっているはずです。聞いた事ありません。聖福寺ヶ谷ではないのか?・・と思いはじめたところ、なんと!『鎌倉廃寺事典』の聖福寺の項に「谷の奥に滝があったが、近年土木工事で様子が一変した」と書かれているではありませんか。また、聖福寺は当時から「聖福寺新熊野」と呼ばれていたようです。このことからも、宅地開発で那智の滝は失われたようですが、聖福寺跡がその記述からも熊野那智があった場所だと思われます。

山腹にあった熊野権現社

本願御墓堂跡裏山から聖福寺ヶ谷に下りて行く途中に、これはどう表現したらいいのでしょうか、熊野神社というか、ここに熊野神社がありましたという記念碑のようなが祀られていました。谷戸を進むと公園があって、そこには聖福寺跡の碑があります。この辺りは確かに大々的に丘陵部の壁面ごとコンクリート舗装されているので、那智の大滝とまでいかなくとも、何かしら滝があってもおかしくありません。 そして下画像が公園の真上丘陵部からの景色です。


那智は修験の場であり、自然崇拝の社でもあるそうなので、この爽快感がいかにもピッタリですね。 丘陵部からは聖福寺ヶ谷から七里ヶ浜の街並みに江ノ島まで見渡せます。 絵図には、滝の下に拝殿があるように見えるので、この下に公園として整備された場所に拝殿があったようです。そして熊野那智である飛瀧権現社がその上に描かれていますが・・

この平場と土塁状が丘陵頂部にかけて何段も続いている

その場所と思われる辺りは凄い事になっていて、寺院跡というか城郭遺構なのか、ひな壇状平場が丘陵頂部にまで連なっています。竹林となっている平場には石材などが散乱していて、もしかしたら最近までここに何かがあったようにも思えました。

夏の日差しと竹林によって、辺りは空気が緑色をしているかのごとく幻想的だった

結局、飛瀧権現社の跡なのかは分かりませんが、この地形や景色がせめてものその名残りであるのかもしれません。そして絵図にもみられたあの瀧池から流れる川は、現在地下に埋もれた音無川であるのは明白でしょう。『新編鎌倉志』では「音無瀧」と紹介しているので、やはり滝(瀧)であったようです。「音がしないことから~」とその名前の由来を紹介していましたが、本家・熊野社に音無川がある事、上部でも紹介した名取市に勧請された熊野社にも音無川があることからも、ここ鎌倉の音無川の名前の由来は言うまでもないでしょう。

かみくら山 かまくら山


こちらのページ(外部サイト)によると、本家・熊野新宮の飛地に、神倉山とその麓に神倉神社があって、面白い事に、境内の石段は源頼朝が寄進したものと伝わっているそうです。そこにはゴトビキ岩という巨石が祀られています。

ハイキングコースにあったゴトビキ岩?

ちょうどこの極楽寺熊野那智があったと思われる辺りは、鎌倉山へと続くちょっとしたハイキングコースになっていて、途中でゴトビキ岩?と思われる岩も発見出来ました。ちょっとこじ付けに近いかもしれませんが、この辺りが熊野信仰の場であっただけにそう考えてしまいました。ちなみに、この岩は石切りされているようです。


この丘陵の頂部にまで行くと、更に景色が壮大になります。画像は逗子方面を向いています。遠くに印象的な色使いの建物の逗子マリーナが見えました。この辺りから鎌倉山という住居表示が現れます。また少し強引ですが、上記した神倉神社の「かみくら山」と「かまくら山」も似てますよね。もしかしたら昔は「かみくら山」と呼ばれていたのではないかと思ってしまいました。極楽寺グループの熊野信仰が忘れ去られた時代に、鎌倉なのに「かみくら山」っておかしくねっ?「かまくら山」でよくねぇ? みたいな地元住民の会話から「かみくら山」という字名が消えていったのではないかなんて想像してみました。

という事で、極楽寺には熊野新宮の他に熊野那智があった事が分かりました。馬場ヶ谷の十二所権現本宮なのかどうかという点までは現在の私の熊野神社の知識では判断できませんが、少なくとも十二所権現は熊野社の一社であるようなので、往時の極楽寺地区には熊野社が三社あったようです。ちなみに、十二所にある十二所神社が所在する牛蒡ヶ谷にも馬場という字名が残されています。あの場所も馬の調教などの場に用いられたのかもしれません。また、勉強し直してから再度このテーマに臨みたいと思っています。

今回、熊野神社という鎌倉遺構の範疇を超えたテーマを扱ったので、手元の資料に乏しく、今回に限り、み熊野ねっとさんなどのネット上の資料を参考にさせていただきました。とても勉強になりました。有難うございます。



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記事作成  2013年6月6日

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