2013年6月4日火曜日

一升枡遺構


馬場ヶ谷と西ヶ谷の間にある丘陵部には、一升枡と呼ばれる城郭遺構が残されています。 一升枡はその名の通り、枡形をしており、霊山山にあった五合枡と同じく防衛施設に関連した遺構と考えられています。

Google Map 極楽寺地区

大仏坂・32号線と接する長谷配水池から、もしくは馬場ヶ谷尼寺跡とされる小谷戸から向かう事が出来ます。 笛田方面からも来れそうですが、そちらの出入口は未確認です。

尼寺跡から向かい丘陵部に入っていくと、急にもの凄いいかにも人工的に手を加えられたのであろう地形が待ち構えています。 ちょうどこの上の丘陵頂部に堀切があるので、これはどうやらその断面を見ている状態であるようです。



鎌倉の堀切は、単に通行路としての掘割状が交差しているだけの場合も少なくありませんが、こちらは完全に尾根を断ち切る堀切そのものなのでしょう。 どう見ても道跡とは思えません。


丘陵を登って向かいますが、階段が施されています。私が知る限り(2011年~)では、鎌倉市はここへの立入を禁じているので、以前、もしくは遠い昔は仏法寺跡のように公園としてでも整備されていたのでしょうか。 しかしながら、階段部分はほんの序盤だけで、その後は生い茂る草木を掻き分けながら進む状態となります。

しばらく行くと、山腹に土塁で囲われた平場が現れます。これが一升枡と呼ばれる遺構です。が、 ご覧のとおり、画像では生い茂る草木によって、その一升枡と云われる枡形形状をお伝えすることは不可能です・・せめて土塁の高まりを確認できる画像があれば良かったのですが、 撮った私でさえ何を撮ったのか分からない程に、ただの草木の画像が私のカメラにたくさん収められていました・・

鎌倉市教育委員会の調査報告書によると、土塁は削り残しではなく、積み上げられたもので、しかも最低でも2回は追加積み上げが行われているようです。 土塁の高さは1.5~3.5mとありましたが、私が確認した限りでは50cm~80cm程でした。土塁内部の中央まで行けば平場の底部がもっと沈んでいるのかもしれません。この藪状態でわざわざ何もないと分かっている平場中央にまで足を踏み入れてはいませんでした。

緑で囲った部分が土塁 

城跡用語でいうところの虎口とでもいうのでしょうか、施された土塁の片隅に一部途切れている箇所があります。つまりこの平場の出入口部分と考えられています。この先は、GPSで確認したところ、ちょうど極楽寺旧境内となる稲村ヶ崎小学校の辺りに出る丘陵に続いているようです。 この遺構を軍事的なものと捉えた場合、極楽寺坂方面に向けて軍隊が駐留していたとも考えられます。


また、この平場から少し離れた位置には、掘割状地形が確認出来ました。こちらもGPSで確認したところ、西ヶ谷本願御墓跡方面に続く丘陵への道のようです。ちょっと土塁状にも見えるので、ただの道ではないのかもしれません。


平場から北側に進むと、丘陵部入口でみられた堀切断面の頂部に出ます。 この辺りは竹やぶとなっているので、地形が確認しやすくなっています。竹やぶはすっきりしているので一時の憩いの場となります。またあの雑草の生い茂る藪の中に戻る気が失せてしまいます。 また、ここ一画で更に土地が落ち込んだ状態が確認できました。

堀切と落ち込んだ地形がみられた

堀切を越えて進むと、いかにも人工的に加工されたのであろう尾根が確認できます。祇園山ハイキングコースにあった佐竹邸跡裏山の尾根にも似ています。こちらはどうやら位置的にも、また馬場ヶ谷へと下りる道筋のようです。


尾根を北側に伝うと、長谷配水池の辺りまで来れます。深沢方面など藤沢と鎌倉を結ぶ県道32号線が直下に控えています。こうして探索してみると、丘陵部各地でみられた掘割尾根などから、土塁で囲われた平場からはかなり広範囲にに色々な場所に向かう事が出来ます。多分、西ヶ谷笛田方面にもこの平場に通じる道跡があるのだと思います。一升枡に駐留した軍隊は、極楽寺坂大仏坂、更には本願御墓跡の裏山で鎌倉の外郭となる西側山稜部分までカバー出来るのではないでしょうか。しかしながら、霊山山にあった五合枡は直下に極楽寺坂が控えているため、その目的であろう用途を推測できますが、こちら一升枡の近くには微妙に軍事的に重要な施設を見出せませんでした。 もしかしたら、極楽寺坂だけでなく、ここ馬場ヶ谷辺りも当時では交通の要衝だったのかもしれません。また、『太平記』によると、新田義貞の鎌倉攻めの際、まだ完全に極楽寺口が突破されていない段階で、一時的に坂ノ下まで新田勢の侵入を許しているようだったので、一升枡があるこの辺りは既に戦場となっていたのかもしれませんし、また、そうなることを幕府が予測していたのかもしれませんね。

発掘調査の結果


土塁で囲われた平場堀切のあった丘陵頂部の発掘調査では、13世紀後半のかわらけ、古瀬戸卸皿、常滑甕(かめ)の破片などが出土しています。 どちらでも同年代の遺物が発掘されたので、平場と堀切は同時期に存在していたようです。 ただ、それら遺物はやぐらや寺社跡で発掘されるものとあまり変わらないようですね。

極楽寺境内絵図 馬場ヶ谷周辺

そういう視点で極楽寺境内絵図馬場ヶ谷付近を見ると、裏側の西ヶ谷と思われる地点にも寺院がいくつもみえるので、一升枡付近での丘陵部の造作はこれら寺院に関連したものも含まれるのかもしれないと思いました。



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