2013年6月13日木曜日

和賀江島


材木座と小坪に挟まれた飯島に所在する和賀江嶋は、日本に現存する最古の築港遺跡です。港を構築した石積みが現在も海中に沈んでいます。潮汐(潮の満ち干き)のタイミングにより、海から現れるその姿は様々です。


和賀江嶋縁起


貞永元年(1232)7月12日 勧進僧の往阿弥陀仏が鎌倉幕府に港を築くことの許可を求めたことに始まります。 時の執権・北条泰時の援助も加わり、和賀江嶋の築造が始まります。往阿弥陀仏がこの申し出をしたのが7月12日、そして港の築造開始が7月15日、そしてなんと8月9日に完工するというとてつもないスピードで和賀江嶋が完成しています。

和賀江嶋の碑

和賀江嶋以前の飯島


こうして鎌倉に港が出来ました、と簡単に話は終わらず、ちょっと調べてみると、和賀江嶋が完成した貞永元年(1232)以前から、どうやら飯島は既に港として機能していたようです。貞応二年(1223)鎌倉に訪れた『海道記』の作者が「商売の商人百族にぎはい」「大津の浦に似たり」などと記しているように、既にこの地が港として商人で賑わっていた事がうかがえます。ですから貞永元年(1232)の和賀江嶋の築造は、飯島が浅瀬で荷の上げ下ろしが難しく、台風や波浪で難破する船が多くあった事による大々的な改修工事でもあったようです。


また、『吾妻鏡』の記述などから、和賀江嶋の辺りを西浜とも呼称されていたことが分かっています。ちなみに現在の由比ヶ浜海岸、もしくは坂ノ下辺りの浜を当時は前浜と呼んでいました。前浜は鶴岡八幡宮の前という意味なのかもしれないと想像できますが、この西浜はどういう経緯でそう呼称されていたのでしょうか。中心となる鎌倉や鶴岡八幡宮より東に位置するにも関わらず西浜と呼ばれています。

新編鎌倉志 飯島項挿絵

商業区域 和賀江嶋


和賀江嶋完成後の仁治三年(1242)に鎌倉を訪れた『東関紀行』の作者は「わかえのつき嶋、三浦のみさきといふ浦々を行きてみれは、海上の展望哀もよほして、こしかた名たかくおもしろき所々にもおとらすとおほゆ」 と記しているそうです。 ・・よく分かりませんが、和賀江嶋が三浦の三崎と共に著名な港湾となっていたと伝えているそうです。 また、このことから、三浦の三崎が当時港として栄えていたという事も分かりますね。 


建長三年(1251)鎌倉幕府が指定する商業区域の一つにここ和賀江嶋が加えられます。 当時、中でも和賀江嶋が最も栄えた商業区域の一つとも考えられています。周辺には貢納物などを納める高御蔵浜御蔵といった施設が建ち並び、字名として残る材木座は、そこが材木の集積地となっていた事に因むそうです。

和賀江嶋と極楽寺


その後、鎌倉幕府が指定する商業区域の一つに和賀江嶋の名が見られなくなります。 これは、和賀江嶋が極楽寺グループの管理下になった事を示します。どうやら幕府がある時から和賀江嶋の商業利権を極楽寺に渡したようです。 極楽寺グループは和賀江嶋にある関所から関銭を徴収し港の改修・管理にあたっていました。

近くに残された祠 船乗り達に信仰されたお堂跡でしょうか

更に、極楽寺は鎌倉の海岸において殺生禁断権を行使しています。浜での漁業(生き物の殺生)を禁止しながらも、漁民が極楽寺にお布施をすれば漁業が許されるという、つまりこちらも関銭が入ような仕組みでしょうか。 なんか儲かってそうな雰囲気ですね、極楽寺。

その後の和賀江嶋


時は下って慶長十一年(1606)徳川家康江戸城の石垣の増改築・改修などのため、鎌倉石が大量に切り出され和賀江嶋から運搬されています。その後、和賀江嶋は近世まで港として機能していました。

和賀江嶋から見た稲村ヶ崎の大掘割と富士山

浅瀬で難破する船も少なくなかった和賀江嶋ですが、そんな事からか、沈んだ船荷の中でも、特に中世の御家人達が好んだ青磁の欠片が未だに沈んでいるそうです。



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探索期間 2012年8月
記事作成 2013年6月13日


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