2013年5月31日金曜日

良観房忍性


忍性の二つのイメージ


極楽寺の開山として知られる忍性は、幕府から港の管理権、漁業権、関銭の徴収権などを任され、陸・海上の交通路や河川の管理まで行っていた、云わば有力者です。一方で、当時、穢があるとしてハンセン病患者に触れる僧侶がいなかった時代に、自らそれら患者に往診したり、歩けぬ物乞いを自ら背負って人通りの多い場所まで連れて行き、夕方にはまた迎えに行って連れて帰ってくるといったエピソードが伝わっています。現代風に例えれば、大企業の役員や知事クラスの政治家・有力者が、重病患者やホームレスなどの世話を自ら行っているようなものでしょうか。そんな人が今の時代に存在するでしょうか。多分、ほぼ絶対と言っていいほどいないと思います。 この二つの相反するイメージを持ち合わせた伝承を持つ忍性という僧侶に私はとても興味を惹かれました。

忍性と叡尊教団


忍性真言律宗の僧侶です。律宗は奈良時代に国家によって公認された仏教研究者集団の一つで、鎌倉期の律宗はその復興活動と考えられていましたが、 宗教学者の松尾剛次先生の著書によれば、叡尊教団とそれまでの律宗では立場的にも教義的にも決定的に異なり、鎌倉期の律宗は鎌倉新仏教と理解すべきであると説いています。
鎌倉時代、忍性の師である叡尊が、西大寺を拠点とした律宗のリーダーであったことから、西大寺律宗、もしくは叡尊教団などとも言い表されます。
叡尊は、北条氏、中でもとりわけ金沢流の実時得宗の時頼などに注目され、鎌倉への下向を促されていました。
叡尊教団は最盛期では10万人を超える信者がいたと伝わっており、鎌倉期の一大宗派勢力だったようです。



関東下向そして鎌倉へ


叡尊の下で勉学に励んでいた忍性は、建長四年(1252)関東に下向し、常陸の三村寺(関東律宗の本寺)を中心に精力的な布教活動を続けていました。
上記したように、北条氏及び鎌倉幕府から叡尊教団が注目されていたため、その関東支部の代表ともいうべき忍性が北条氏の誰かから招かれたようで、弘長元年(1261)45歳の時にいよいよ鎌倉に向かう事となります。 釈迦堂(新清涼寺)多宝寺の住持を経た後、文永四年(1267)51歳の時に極楽寺の開山として忍性が迎えられます。そして、極楽寺境内絵図にも描かれていましたが、忍性は病舎などを設け、多くの難病患者の治療にあたっていた他、貧困層や孤児、更には馬などの動物にいたるまでその救済活動に努めていました。また、八代執権の北条時宗からは、桑ヶ谷診療所の経営を任され、多くの病人患者の治療にあたっています。

極楽寺境内絵図 往時の豪華な極楽寺中心伽藍

極楽寺の収支


忍性は、道路改修・架け橋・井戸の掘削などの土木事業にも関わっています。幕府はそれらの報酬として、陸・海上の交通路や河川の管理を任せていました。つまり、それらの土地で関銭の徴収権などを忍性らが行使する事によって、極楽寺グループの収入となる仕組みになっていたのでしょう。師である叡尊が、弘安九年(1286)宇治橋を修造した際に、宇治川の殺生禁断権が叡尊に認められた事例が記録に残されています。 その事からも、極楽寺グループが土木事業として関わった橋や道にも同じように管理権があったと考えられています。『性公大徳譜』によれば、忍性が関わったものとして、橋が189ヶ所道が71ヶ所井戸が33ヶ所とあったので、極楽寺の管理下にあった土地はかなりあったものと思われます。 また、鎌倉の内港である和賀江嶋をはじめ、現在でいうところの由比ヶ浜七里ヶ浜などの海域も極楽寺の管理下となっていました。さらに、当時の律宗には「浄地」といって年貢・米銭などの資産を運用する利銭活動を担当したチームがありました。 分かりやすくいうと、貸し金業です。これだけ聞くとイメージが良くありませんが、律宗の戒律では、残飯を次の日の食事に繰り越す事や、財産などを備蓄する事を禁じていたので、それらを回避するための便法として活用していたそうです。これらこうして得た財源を、上記したように、病人や貧困層の救済活動にあてていたと思われます。また、同じく『性公大徳譜』によれば、忍性は生涯に水田180町寺院など32ヶ所に寄進したともあるので、この事からも忍性及び極楽寺グループの資産が潤沢にあったであろう事が伝わってきます。

極楽寺が管理していた和賀江嶋

伝承と律宗のその後


玉舟という僧侶が記した江戸期の『玉舟和尚鎌倉記玉舟』に、忍性ケン首座という僧侶と同性愛関係にあったことをほのめかすエピソードが載せられています。このケン首座なる僧侶が、大覚禅師(建長寺の開山・蘭渓道隆)が童女を召し使っていたと北条時宗に讒言するなど悪事を行ったために、やがてハンセン病にかかり、極楽寺の施設にやってくることとなります。忍性はそのケン首座と寝食を共にし、瘡を舐め手でこすっていたそうです。これが事実なのかどうか、今更調べる手立てもありませんが、こんな小さなどうでもいいエピソードが伝わっている事自体がリアリティを感じると私は思いました。師である叡尊が忍性を「慈悲に過ぎた」と評していたそうですが、このエピソードも、忍性の人を思いやる、もしくは人を愛する行為の深さにもほどがあるといった感が伝わってきます。瘡とは、分かりやすく言うと、皮膚にできる「できもの」「ただれ」です。この本当かどうか分からない逸話を信じれば、忍性がホモセクシャル、もしくはバイセクシャルだったのかという問題は別として、当時から妻帯している僧侶も少なくない中、これほどの有力者でありながら、女性との交わりを断つという戒律を忍性は破っていなかったと受け取る事もできます。

忍性がいた多宝寺跡に残るやぐら群

晩年は、永福寺五大堂明王院四天王寺などの大寺院の別当の他、東大寺の大勧進などにも任命されています。このことからも、幕府のみならず朝廷からも忍性が僧侶として、そして経営者としても評価・信頼されていた事がうかがえます。忍性が亡くなってから30年後、新田義貞の鎌倉攻めによって鎌倉幕府が滅亡します。律宗は、鎌倉幕府の消滅と共に大きく衰退の一途を辿ります。その要因はあまりにも北条氏と密接すぎたためとも云われています。もしくはその後に忍性のようなカリスマが現れなかったのが原因なのかもしれません。


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