2013年5月29日水曜日

極楽寺地区


極楽寺地区


下画像は、江戸期に作成された『極楽寺境内絵図』で、往時の極楽寺地区が描かれています。絵図に描かれている建物は全て寺院で、当時は極楽寺の塔頭・支院などが49もありました。但し、極楽寺グループのトップであった忍性が今でいうところの社会福祉事業などにも尽力していたので病院などに関連した施設もこれら建物に含まれています。『とはずがたり』の作者である後深草院二条が、鎌倉に訪れた際、鎌倉の街並みを「袋の中に物を詰め込んだよう」と表現していましたが、まさにこちら極楽寺境内絵図の風景も「袋の中に寺院を詰め込んだよう」ですね。もしくは「寺院だらけの水泳大会」といったところでしょうか。

「1」現在の稲村ヶ崎小学校 「2」現在の極楽寺 「3」現在の江ノ電極楽寺駅辺り 「4」極楽寺坂

極楽寺の往時と現在


往時の極楽寺中心伽藍が、絵図の数字「1」部分で、現在でいうところの稲村ヶ崎小学校にあたる場所です。 小学校舎建設時に、これら中心伽藍跡の発掘調査がされ、陶磁器や方丈華厳院(絵図「1」の上方にある大きめの建物)のものと推定される凝灰岩切石による壇正積基壇などが出土しています。一方で、現在の極楽寺は、絵図「2」の二天門四玉門の間部分と推定されるので、往時の極楽寺の玄関部分でしかないんですね。そして特筆すべきは、絵図の左端に記した田辺ヶ池、これは現在の霊光寺です。ですから当時の極楽寺地区は、現在は大々的に住宅街として宅地化された広大な七里ガ浜をも含んでいたようです。また、極楽寺地区全体に目を向けると、往時にこれだけの寺院がありながら、現在はほとんど何も残されていません。そしてやぐらなどの遺跡も壊滅的な状態で、鎌倉市教育委員会の調査報告書に記されていたほとんどが丘陵部の崩落防止に伴う工事で埋められていました。ただ、丘陵部寄りには、仏法寺跡一升枡といった有名な遺構が残されている他、寺院跡と思われるひな段状地形や、平場に古道跡などを確認する事が出来ます。かすかな痕跡ではありますが、この寺院のアミューズメント・パークとも言うべき極楽寺エリアは、自分が探索した場所を、この境内図を参考に、ここは何という寺院跡だったのかと推定する地味な面白さがあります。


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記事作成  2013年5月29日

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