2013年5月21日火曜日

鎌倉の土木遺構


切通し

切通しは、山稜を越すために丘陵部を掘削し、掘割状にした交通路です。 有事の際には、敵の侵入を防ぐための造作が成されるため、その形状は時勢によって姿を変えたと思われます。
明月谷にある切通し
残念ながら、鎌倉の各地にある現代の切通しのほとんどは、往時より数メートルから10m近く掘り下げられていたり、ルート変更などがあって、旧態の趣きをあまり残していません。 ただ、東勝寺跡や瑞泉寺の裏山などに、傾斜がきつく、道幅もそれ程ない、往時からの姿を保っていると考えられる古道跡がいくつか存在します。
瑞泉寺裏山にある切通し

堀切

尾根道の進行を妨げる、もしくは尾根を断ち切る造作が堀切です。城跡などでよくみられる造作で、敵の侵入を妨げる目的で作られています。 但し、鎌倉の堀切の場合、そういった城郭としての造作とは一概に言えません。
住吉城跡にある堀切
鎌倉の丘陵部を歩くと、そこら辺に堀切状の地形が見られますが、形は大小様々で、中にはこれが敵の侵入を妨げられるものなのかと思ってしまう小さなものも少なくありません。単純に違う経路の道としての掘割状が、ただ単に尾根道に交差して、堀切に見えると思われるケースも考えられます。
また、堀切位置を確認すると、隣り合う寺社の境界線と思われる位置にある事も多く、ただ単に寺社の敷地範囲を示している場合もあるようです。
堀切なのか、ただの掘割状なのか、境界線なのか、その判別は周辺の地形や歴史的環境を併せてよ~く吟味しなければ、その性質の断定は難しいのかもしれません。
そして、下画像のようなS字状鞍部、もしくはS字状堀切道という形態があります。これは敵の侵入速度を遅らせるために作られた造作と考えられていて、鎌倉ののどかなハイキングコースに突如現れます。


平場

平場は、城跡用語でいうと、軍隊を駐留させる曲輪状のものを指しますが、上記した堀切と同様に、鎌倉の平場は、そういった軍事施設的なものを指すとは限りません。どちらかというと、御家人の邸跡、寺社跡、または葬送場としての用途に用いられたものなど、幅広い選択肢があります。
大町釈迦堂口遺跡平場 ここでは火葬場の跡や堀立柱跡などが発掘調査で確認されている
また、その土地が戦場となって多くの人が亡くなった跡、軍用地として整備された跡などを葬送場として活用したりと、そのスペースの用途は何重にも重なる場合があります。


切岸

敵の登攀行為を防ぐ、つまりよじ登ってこれないようにする目的のため、丘陵壁面が絶壁状に削られている状態を指します。 鎌倉各地で見られますが、名越坂付近にある大切岸が有名です。画像は杉本城の一部とも考えられる明王院丘陵部です。切岸も、城郭としての造作と考えられる一方で、ただ単に石切りの跡なのではないかとも考えられているようで、こちらも堀切や平場同様にその用途を一概には断定できないようです。
明王院丘陵部の絶壁状

石切り場跡

鎌倉が石の産地であった事と、中世に政治の中心地となり都市として機能した事による人口の集中から、当時の石材の需要は凄まじかったようです。
主に十二所、浄明寺、二階堂、今泉、名越、極楽寺、山ノ内で大々的な石切りがされたようです。 鎌倉で切り出される石は、砂質凝灰岩という種類で、とても加工しやすい一方で、風化に弱いのが特徴です。
名越にある巨大な石切り場跡

庭園遺構

鎌倉で一番有名な庭園遺構といえば、南北朝期のカリスマ僧・夢窓疎石が作庭したと云われる瑞泉寺の庭園でしょうか。 岩盤を彫刻的手法で削り、山裾の池庭、山頂の眺望点といった上下二段構造の空間を演出しています。
瑞泉寺庭園
また、称名寺などは、鎌倉期に描かれた絵図の苑池に橋などが、現在でも同じ形状で再現されています。 その他にも、海蔵寺や大慶寺などで、寺社内の岩盤を削っている箇所がみられたので、もしかしたら庭園としての造作なのかもしれません。
称名寺

港湾遺構

材木座海岸に鎌倉の内港として活用された和賀江嶋跡があります。近世まで港として活用されていたそうです。一帯には港を構築していたのであろう石が海中に散乱している、というより敷き詰められている状態となっています。これらの石は主に相模川、酒匂川、伊豆海岸から運び込まれたそうです。
和賀江嶋