2013年3月23日土曜日

東勝寺跡 ~東国の王の寺③


前回に続き、東勝寺跡~東国の王の寺その③です。今回は葛西ヶ谷北東支谷の丘陵部、小富士山の詳細をレポートします。下画像の赤い丸のエリアです。北東支谷の裏山丘陵部を小富士山と云います。


『東勝寺跡・妙本寺周辺現状測量調査報告書』(以下調査報告書)によると、小富士山では、「富士塚信仰の石組みがみられる」とありました。富士塚信仰とは、丘や塚状の地形を富士山に見立てて、そこに行けば富士山に行った事になる(ご利益がある)という江戸期に流行した信仰で、当時の新興宗教のようです。これは都内でも多く残されていて、私の生まれ育った武蔵国荏原郷でいうと、品川神社や多摩川浅間神社などがこれに当てはまる名残りがみられます。

祇園山ハイキングコース 葛西ヶ谷北東支谷部

東勝寺跡からハイキングコースへ向かい、丘陵頂部に出る直前のグルッとした地形が北東支谷の奥部になります。鎌倉の谷戸の形状を後ろからダイナミックに体感出来る地点です。下画像の「2」の辺りからの撮影したものです。こちらも中央支谷同様に、平場がひな壇状に造成されています。

北西支谷


下画像は『宝戒寺境内領地図』(以下絵図)の小富士山部分です。「1」が腹切やぐらで、白の点々がハイキングコースです。面白い事に、現代では認知されていない道が描かれています。(赤色と黄色の点々)

『宝戒寺境内領地図』 東勝寺跡北西支谷部クローズアップ
1腹切やぐら 2撮影ポイント 3太神宮祠 4大蔵稲荷(と思われる) 5堀切 6展望スポット

黄色の点々の辺りの箇所は、既に宅地化されていて、丘陵がコンクリートで覆われている部分もあるので、現在では失われている可能性があります。まぁどちらにしろこの辺りは民家のあるエリアなので立ち入る事は出来ません。しかし、赤の点々部分は小富士山の尾根から確認出来る範囲で、確かに、絵図に描かれた道部分に推定できる箇所では、微妙ながらも山腹に掘割状が続いている箇所が視認できました。さて、この道は鎌倉期からあったものなのでしょうか。

小富士山北側にある堀切
白の点々が尾根 赤の点々が稜線を断ち切る掘割状

ハイキングコースから小富士山の尾根道を北に、絵図でいうところの左側に進むと、丘陵のほぼ北端手前辺りで、大きめな堀切に遭遇します。尾根道を断ち切っている掘割状をたどると、微妙ながらも両方向共に山腹へ下りて行く道筋を確認できます。つまり北東支谷から登頂して、大御堂ヶ谷側に下りて行ける道にも思えますが、大御堂側の道らしい形跡は途中で追跡不可能となるので、何とも言えません。ただ、北東支谷側のこの掘割状はどうやら絵図の赤い点々箇所につながっているようでした。そう考えると、絵図ではその辺りの地形形状が急激に落ち込むように描かれていますが、もしかしたらこの堀切の辺りを表したものなのかもしれません。

太神宮と書かれた北東支谷山腹にあった祠


富士塚信仰 伊勢信仰


絵図の「2」と「3」の白い丸の中にマーク(■)のようなものが描かれています。推定される場所には太神宮と書かれた祠と稲荷社(大蔵稲荷)があったので、何かしらの建造物を表すようです。「神宮がここにあったの?」という素朴な疑問は置いといて、これら社が少なくとも江戸期からあったことは確かなのでしょう。稲荷社から大御堂ヶ谷側に下りると、何と鳥居が建ち並ぶ立派な参道になっており、入口には江戸期の庚申塔が置かれています。


そこで、調査報告書の「富士塚信仰の石組みがみられる」を踏まえると、絵図の赤色と黄色の道から庚申塔の置かれた部分までが、江戸期に富士塚信仰の場として活用されていたのではないでかと考えられます。なぜなら、絵図「2」の祠、太神宮とは、伊勢神宮に参拝した事になる、富士塚信仰ならぬ伊勢信仰と考えると合点がいくように思えるからです。つまり、江戸時代では、この小富士山を登り下りするだけで、伊勢神宮に、もしくは富士山と伊勢神宮の両方の御利益を頂けるという壮大な仕掛けだったのではないでしょうか。

少し「鎌倉」テーマから外れてしまいましたが、祠と稲荷社にはピンポイントでやぐらが付属していたので、もしかしたら鎌倉期では何かしら参拝の対象となるものがそこにあったのかもしれません。また、『鎌倉廃寺事典』によるところ、稲荷社は黒川材木店(多分、若宮大路沿いにある店)付近にあったもので、最近の移建だとの事です。


大倉地区


先程の堀切から更に丘陵の先端部に行くと、景色が開けるポイントがあります。何とここは、鎌倉時代草創期であれば、大倉幕府とそれを取り囲むようにあった有力御家人達の邸地に、六浦道などが一望出来てしまう凄いポイントなんですね。この状況を現代で例えると、皇居や霞ヶ関を見下ろす警視庁ビルからの展望のようです。

「1」大倉幕府 「2」源頼朝法華堂 「3」北条義時法華堂 「4」東御門 比企氏邸地 「5」荏柄天神社 「6」和田氏邸地 「7」六浦道  「8」畠山氏邸地 

比企氏の邸は比企ヶ谷妙本寺ですが、『吾妻鏡』に東御門にも邸があった事が記されています。もしかしたら一族が妙本寺で、比企能員の邸が東御門といった感じだったかもしれません。また、和田と畠山の一族は浜辺寄りにも邸があります。カメラでは収まりきらなかったのですが、画像でいうところのもう少し左側になる三浦氏邸地、筋替橋ぐらいまでここから展望出来ます。ここから見える範囲に邸を構える御家人、比企氏、畠山氏、和田氏、三浦氏、・・何と全て北条氏に滅ぼされた氏族ですね。更にもう少しツッコむと、大倉幕府にいた将軍頼家と実朝も北条氏に殺されたと言っても少なからず間違いではないでしょう。そう考えると、頼朝は落馬が原因で命を落としたとされていますが、この景色を見ていると、やっぱりヤラれたんじゃ?・・なんて思えてきます。こうして彼らが実際にいた地をこのように眺めていると、よくもまぁこれだけの有力者達を一掃したものだと、北条氏のその凄まじかったであろう労力の重みが伝わってくるようでした。



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探索期間 2011年7月~2012年7月
記事作成 2013年3月23日

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