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木古庭不動尊と畠山陣地

2015/06/09

神社 葉山町

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木古庭不動尊と畠山陣地



葉山の奥地となる木古庭(きこば)は、横須賀市との境にあります。畠山重忠に由縁する木古庭不動堂や、日蓮が鎌倉に向う途中に立ち寄り法力で湧水させたと伝わる高祖井戸などの史跡が所在しています。このことからも三浦半島の重要な鎌倉街道が木古庭を通っていたことがわかります。

葉山町の木古庭不動堂周辺に、衣笠合戦で畠山重忠が陣を置いたと言われています。この記事ではその木古庭周辺の史跡と様子をお伝えします。


畠山陣地


木古庭には、衣笠合戦で畠山重忠が陣を置いたという伝承が残されています。木古庭不動堂、そして県道横須賀葉山線を挟んだ対面にある伊東家長屋門の後にある畠山と呼ばれる山がその伝承の地となっています。少し衣笠城と距離があるように思えますが、Google mapで計測したところ、木古庭不動堂から衣笠城まで直線距離でわずか3.25kmでした。

木古庭後山

『三浦半島の史跡みち』と『葉山町の歴史とくらし』のそれぞれに微妙な表現がみられますが、木古庭不動堂が陣地、そして畠山を本陣と記してあります。どちらにしろここ木古庭一帯に一時的にも畠山重忠が布陣したものと思われます。

木古庭不動堂


それではまずは木古庭不動堂へ向かいます。ちょっとした丘陵を登るように向かいます。底面がコンクリート舗装されていますが、往時では山道の様相だったことが偲ばれます。

旧道だったことを偲ばせる素敵なくねり具合

滝が迎えてくれます。ここが三浦半島で唯一の滝らしい滝だとありました。それにしても水量が多く、とても勢いがあります。

不動堂の滝

本堂へと向かいますが、何やらひな段状地形がみられます。畠山重忠が布陣したという伝承からも城郭遺構かと思いきや、『三浦半島の史跡みち』に、「江戸時代の屋外舞台の名残り」だとありました。当時は江戸相撲や芝居などが行われ、とても賑わっていたそうです。さらに、江戸時代の屋外舞台が残っているのは、大変珍しいケースなんだそうです。屋外舞台というひな壇状地形があるなんて、こんな所まで来た甲斐がありました。

屋外舞台の名残り

ちなみに、いまいちイメージが湧かないという方のために、同じく葉山の森山神社に屋外舞台らしき造作があります。観客席の方が高くなっているんです。ですから上画像の奥に当時は舞台があったのでしょう。

森山神社

木古庭不動尊縁起


『葉山町の歴史とくらし』によれば、畠山重忠が守り本尊だった不動明王に戦勝を祈願したいという伝承が残されており、畠山重忠の守護不動とも呼ばれています。勝利した後、像をこの池に勧請すると一夜のうちに山から清水が湧き出て滝となったそうです。本尊不動明王は、畠山重忠の持仏で身代わり不動とも呼ばれています。

畠山


さて、それでは畠山重忠が本陣を置いたというその名も畠山に向かいます。県道からすぐに登り坂を行きます。この辺りを後山と云い、伊東家の長屋門が残されています。しかもこの伊東家、伊東祐親を先祖と称しているそうです。意外にも『三浦半島の史跡みち』に、可能性は有り得るといった旨が記されていました。

後山から県道を挟んだ向こうにある木古庭不動堂のある丘陵を眺めた図

丘陵の登り道とはいえ、底面がコンクリート舗装されています。そしてしばらくした後、旧態地形へと突入します。なんと・・素晴らしすぎる切通しが出迎えてくれました。


形状・掘割度・道の曲がり具合、どれをとっても美しすぎます。また竹林というのがいいのでしょうか、切通しととても合います。さらに、これだけではなく、切通しを抜けると今度は陥没したかのような地形がみられます。しかもかなり大きいです。


さらにおかしいのは、ハイキングコースとして整備されたとも考えられますが、全体が少し窪んでいて歩く部分だけ土橋状になっています。何か壮大な堀切か空堀の上にでもいるようです。もしくは土塁でしょうか。一体何なんでしょう・・。


竹林を抜けると、あとは鎌倉でもよくある普通の尾根道となります。しばらく進むと畠山頂部となり平場が施されていて、そこから景色が望めました。

畠山頂部平場

なんとビックリ、横須賀港が望めます。せいぜい木古庭周辺を見渡せるぐらいかと思っていたので驚きました。高いんですね。畠山重忠が布陣したという伝承が本当であれば、ここは物見台として活用されたのでしょう。

畠山頂部から見えた景色

畠山は逸見城跡か?


ちょっと意外な展開が多すぎて驚きの連続でしたが、『葉山町の歴史とくらし』に「逸見五郎の居城」とあったので、竹林のあの怪しい地形造作は、その逸見氏が施した造作の名残りなのかもしれません。畠山重忠は、小坪合戦(由比ヶ浜合戦)の3日後に衣笠城を落としているので、ここでゆっくり城郭を施す暇などなかったでしょう。ちなみに逸見氏は甲斐源氏です。『吾妻鏡』の健保元年(1213)5月6日条に、和田方として和田合戦の戦死者名簿に載せられています。

畠山頂部平場にあった石造物

ここ畠山から隣接する山々へ移動できるようです。仙元山にもアクセスできるとありました。阿部倉山(長柄)で話をうかがった山男さんによれば、阿部倉山から二子山・仙元山へと行けるそうなので、ということは長柄の阿部倉山からここ畠山まで尾根道で来れることになります。阿部倉山の麓には畠山重忠の念持仏とも云われる畠山地蔵がありました。畠山伝説が尾根道で繋がっています。

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