タイトルのテキスト
タイトルのテキスト
タイトルのテキスト
タイトルのテキスト

中尊寺 金色堂

2015/05/21

寺院 平泉

t f B! P L

〈中尊寺〉金色堂


歴代の奥州藤原氏が眠る金色堂を擁する中尊寺は、平泉の中心区画最奥に位置します。奥州藤原氏の初代清衡は、不幸な前半生を乗り越え、巧みな政治力で奥州に平和をもたらした功労者です。中尊寺は、そんな清衡が創り上げたかったこの世の浄土の願いが込められています。

中尊寺

山号寺号 :関山中尊寺
建立   :嘉祥三年(850)
開山   :慈覚大師円仁

住所   :岩手県西磐井郡平泉町平泉衣関202
拝観時間 :8時30分~17時(冬季は16時30分まで)
拝観料  :大人800円・高校生500円・中学生300円・小学生200円
駐車場  :有り

月見坂


入口から丘陵を登るように本堂・金色堂へと進む参道を月見坂と云います。金色堂までだいたい800m、さらにそこに行き着くまでに多くのの寺院・お堂が所在しています。

ボリューム的には鎌倉でいうところの建長寺・円覚寺レベルの大寺院でしょうか。ですから足腰の弱い方はちょっと厳しいかもしれないと思うかもしれませんが、意外にも坂道の傾斜はきつくありません。そしてこの月見坂が往時の幹線道路だった奥大道でもあります。

中尊寺案内板を拝借
①八幡堂 ②弁慶堂 ③本堂 ④梵鐘 ⑤讃衡蔵 ⑥金色堂 ⑦経蔵 ⑧旧覆堂 ⑨白山神社

月見坂
美しすぎる新緑のもみじ

ウォーキングトレイルとしてハイキングコースから金色堂に向う道もあります。ただ、こちらには「熊出没注意」という看板があったので、「気を付けてください」としか言えません・・。

山道で金色堂へ向うウォーキングトレイル

西行の痕跡


月見坂を進むと、八幡堂や弁慶堂など、平泉の歴史に因んだ史跡が並んでいます。弁慶堂の近くにある東物見台から遠景を望めました。向こうに見える山を束稲山(たばしねやま)と云います。平泉に二度訪れた西行が、ここから見たのかはわかりませんが、ともかくこの束稲山を見て歌を残したそうです。

「ききもせず 束稲やまのさくら花 よし野のほかに かかるべしとは」

東物見台からの景色

「西行さん相変わらず桜が好きなんですね」と言いたいところですが、そもそも往時では束稲山は桜の名所だったそうです。月見坂をさらに進むと「甘酒」と記された看板があったのでお店屋さんでしょうか。古民家をそのまま使用したかのような素敵な様相でした。ここからも遠景を望めました。


西行と鎌倉

西行と鎌倉

鳥羽院下北面の武士として活躍し、和歌・蹴鞠・今様などの才能にも恵まれ、将来を嘱望されていた佐藤義清は、突然、23歳の若さで出家し、西行と名乗り、遁世僧としてその後の人生を歩みます。2000首以上あるとも云われる彼が残した和歌は、当時から、そして現在に...

中尊寺本堂


坂の途中で本堂が現れます。中尊寺は天台宗で本堂のご本尊は釈迦如来です。

本堂
もみじの枝の影絵

お隣の薬師堂に鎌倉では見たことのない平安時代後期の宝塔がありましたが、緑は緑でも少し違う色をした新緑のコントラストに見とれてしまいました。

薬師堂の新緑

梵鐘


薬師堂から不動堂・大日堂と進むとあったのが、素敵な雰囲気の康永二年(1343)の梵鐘です。史跡保護のためなのか、もうお役御免なのか、ちょっとわかりませんが現在は使われていないそうです。

梵鐘

金色堂


さてそしていよいよ金色堂に到着。全てを紹介していませんが、入口からここまで色々と見所があったので気付いたら一時間もかかりました。

金色堂覆堂

金色堂は世界で唯一の皆金色のお堂です。金の純度は一般的には50から多くても94%と云われていますが、金色堂の金箔はなんと純度97%です。

金色堂

お堂はガラスケースに覆われているため、仏像や装飾の細部までは見えませんが、螺鈿(貝殻を加工して張り付ける装飾品)が2万7千個も張られています。しかもこの螺鈿、硬くて加工しづらいことで有名な夜光貝なんだそうです。

夜光貝で加工された螺鈿 ○部分

金色堂の距離感の遠さにちょっとガッカリでしたが、一方で隣接する讃衡蔵(いわゆる資料館・宝物館のような施設)では、平安末期に造立された貴重な仏像が何体も並べられていて、なおかつかなりの至近距離で眺めることができます。

讃衡蔵

旧覆堂


金色堂から奥にあったのが旧覆堂。正応元年(1288)の棟札により、鎌倉幕府によって金色堂の修復が行われ、覆堂が建てられたと考えられてきましたが、近年の調査によって、金色堂建立後50年ほどで簡素な覆屋根がかけられ増改築を経て室町時代中期に現在の形になったことがわかっています。材質はまさかの鎌倉時代からのものでしょうか。素敵な雰囲気です。ちなみに中にも入れるんですよ。

旧覆堂

白山神社


中尊寺の一番奥に白山神社があります。嘉祥三年(850)中尊寺の開祖である慈覚大師が勧請したものだと由緒にありました。能舞台が同居する見たことのない白山神社です。ちなみに中尊寺からやや南にも白山神社がありますが、そちらは平泉の四方鎮守の一つでした。

白山神社

素敵な能舞台は、由緒書きからはいまいち建立年月日がわかりませんでしたが、関白豊臣秀次と伊達政宗が観覧したとあり、また、嘉永六年(1853)に当時の伊達藩主から再建奉納されたとありました。

国重要文化財の能舞台
白山社本殿

その後の中尊寺


長治二年(1105)藤原清衡が中尊寺の造立に着手し、大治元年(1126)に21年の歳月を費やして中尊寺を落成させたと伝えられています。全盛期では寺塔40・僧坊300にも及ぶとありました。また鎌倉幕府が建保元年(1213)に伽藍の修理、正応元年(1288)に金色堂の修理、覆堂を設けるなどの記録が吾妻鏡から伝わっています。頼朝が藤原氏を滅ぼした以降、庇護者を失った中尊寺は次第に衰退し、さらには建武四年(1337)の火災で多くが焼失したと伝わっています。

関連記事

毛越寺

毛越寺

毛越寺は、奥州藤原氏二代基衡の建立です。往時では堂塔40・僧坊500を数え、中尊寺をしのぐほどの規模と華麗さであったと云われています。壮大な庭園遺構と伽藍遺構が魅力です。嘉祥三年(850)慈覚大師の前に白鹿がうずくまっていました。大師が近づくと姿をかき消...

観自在王院跡

観自在王院跡

観自在王院跡 奥州藤原氏二代基衡が建立した毛越寺の隣に、基衡の妻が建立した観自在王院跡が残されています。当初は基衡の邸宅でしたが、基衡没後に寺院に造り替えたと考えられています。毛越寺と観自在王院跡のある辺りが平泉の表玄関となります。つまり平泉の玄...

無量光院跡

無量光院跡

無量光院は、奥州藤原氏三代の秀衡が、宇治平等院の鳳凰堂を模して建立しました。建物の中心線は西の金鶏山と結ばれており、その稜線上に沈む夕日に極楽浄土をイメージした浄土庭園の最高傑作と云われています。無量光院を建立した秀衡の平泉館(柳之御所)と加羅...

柳之御所遺跡

柳之御所遺跡

柳之御所は、奥州藤原氏三代の秀衡や泰衡の政務の場として活用されていたと考えられており、吾妻鏡に記されている「平泉館」に比定されています。堀・園池・掘立柱建物跡などの遺構から、土器・陶磁器などの遺物が多数見つかっています。この柳之御所こと平泉館は、...

達谷窟毘沙門堂

達谷窟毘沙門堂

達谷窟は、奥州合戦の際に頼朝が立ち寄ったと『吾妻鏡』に記されています。平泉中心区画から5kmほど離れています。当時の幹線道路である奥大道沿いに位置し、大よそ1200年前には蝦夷の悪路王が城塞を構えていたというとても古い歴史を持つ史跡です。奥大道は、白...

長者ヶ原廃寺跡

長者ヶ原廃寺跡

平安時代、中尊寺の北を流れる衣川から北は「奥」と呼ばれ、蝦夷(えみし)の地となっていました。この境界地点には、藤原氏以前の奥州の支配者・安陪氏が本拠を置いていましたが、奥州藤原氏初代清衡も一族との争いに勝利した後、衣川に接する平泉に居を移してい...

白鳥舘遺跡

白鳥舘遺跡

白鳥舘遺跡は、前九年合戦(1051~62)で、源頼義・義家父子と戦った安陪貞任の弟の白鳥八郎則任(吾妻鏡では行任)の邸跡と伝えられています。但し、この地では、安陪氏時代に限らず、10~15世紀にまでかけた遺構・遺物が見つかっています。北上川を監視すること...

ブログ内検索

ブログ アーカイブ

お問い合わせ

名前

メール *

メッセージ *

QooQ