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西行と鎌倉

2014/04/21

鎌倉市 西行

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〈西行〉と鎌倉

「願わくは、満月の光を浴びた満開の桜が、私と私の死を照らし出さんことを」西行

文治二年(1186)、歌人・僧侶として知られる西行が鎌倉にて源頼朝と面会しています。遁世僧の身でありながら、一体彼にどのような目論見があったのでしょう。この記事では、西行の生涯と西行が鎌倉に訪れたときの様子に焦点を当ててみました。

西行法師

生年   :永久六年(1118)
没年   :文治六年(1190)
俗名   :佐藤義清
出自   :藤原氏北家藤成流
最終官職 :左兵衛尉

鳥羽院下北面の武士として活躍し、和歌・蹴鞠・今様などの才能にも恵まれ、将来を嘱望されていた佐藤義清は、突然、23歳の若さで出家し、西行と名乗り、遁世僧としてその後の人生を歩みます。2000首以上あるとも云われる彼が残した和歌は、当時から、そして現在に至るまで多くの人達を魅了してきました。

『西行法師』(菊池容斎)

出自


佐藤義清は、藤原秀郷の嫡流(藤原氏北家藤成流)で、父・祖父・曾祖父と、左兵衛尉と検非違使を兼務する名家に生まれます。紀伊国田仲庄に荘園を所有する経済力にも恵まれた家柄です。『吾妻鏡』には奥州藤原氏と同族だとありました。藤原頼長の日記『台記』に「俗時より心を仏道に入れ、家富み年若く、心に愁ひなきも遂に以て遁世す。人これを歎美する也。」と義清の出家した様子が記されています。

出家の理由


義清の出家の主な理由として、無常観説と悲恋説の二説が挙げられています。


無常観説

『西行物語』にある、同族で同僚の佐藤憲康と共に検非違使に任官される当日、憲康の突然死に衝撃を受けて無常観を募らせて出家したというものです。この「同族で同僚の佐藤憲康」ですが、文献・資料では実在を確認されていません。


悲恋説

もう一つは『源平盛衰記』にある「畏れ多くて名前を云えない程の身分の高い女性」との悲恋説です。この「畏れ多くて名前を云えない程の身分の高い女性」とは、はっきりとはわかっていないようですが、鳥羽天皇中宮の待賢門院璋子が候補の一人として考えられています。藤原李通を破滅に追い込んだとあったので、今でいうところの魅惑の悪女だったのかもしれません。ちなみに待賢門院は義清の17歳年上です。


出家後の西行は、東山・鞍馬・嵯峨などにて庵を結んでいましたが、特に高野山で生涯の多くを過ごしています。また、陸奥・四国への旅に出ています。後世にて『とはずがたり』の作者として知られる後深草院二条が西行に憧れて旅に出たと云われています。

後深草院二条と鎌倉

後深草院二条と鎌倉

『とはずがたり』の著者として知られる後深草院二条は、久我大納言源雅忠の娘で実名は不詳です。正嘉二年(1258)の生まれで没年は伝わっていませんが、少なくとも50歳頃まで『とはずがたり』を記していた事がわかっています。『とはずがたり』の前半は著者であ…

花が好きだった西行


西澤美仁著『西行』より引用
「花に染む心のいかで残りけん 捨て果ててきと思ふ我が身に」

花の色に心が染まるほど花のことばかり考えている。そんなにも花に執着する心がどうして私の身に残ってしまったのか。出家の時には、あれほど念入りにすべての執着を捨て果てたと思っていたのに。



西行は花が大好きだったようです。花を題材とした歌が多く残されています。人が花を見て美しいと思う時、それは自分の心にある美しい部分を見ているのではないでしょうか。だからいつも花のことばかり考えている西行の心はきっと美しかったのでしょう。

西行の鎌倉下向


文治二年(1186)、69歳となった西行は、二度目となる陸奥への旅に出ます。これは、平泉にいる同族の藤原秀衡から、東大寺再建事業に要する砂金を寄進するよう請うのが目的とされています。途中、鎌倉に立ち寄り、鶴岡八幡宮寺に訪れています。

鶴岡八幡宮

源頼朝との面会


『吾妻鏡』によれば、この時、西行は鶴岡八幡宮寺の放生会に参詣していた源頼朝の目に留まり、御所へと招待され、夜通し話し合っていたとあります。

話題は主に秀郷流の兵法や和歌について語られ、頼朝は藤原俊兼を議事録係りにする程聞念入りに聞き入っていた様子です。翌日、頼朝の引き止めにも応じず、西行は鎌倉をあとにします。その際、西行は銀作りの猫を引き出物にもらいましたが、門の外で遊んでいる子供に与えたとありました。

西澤美仁著『西行』によれば、この頼朝との面会は「秀郷流の兵法を伝授する代わりに、平泉からの砂金輸送の安全を保証させることとの政治的駆け引きだった」とあります。

西行が平泉で詠んだ束稲山
中尊寺 金色堂

中尊寺 金色堂

歴代の奥州藤原氏が眠る金色堂を擁する中尊寺は、平泉の中心区画最奥に位置します。奥州藤原氏の初代清衡は、不幸な前半生を乗り越え、巧みな政治力で奥州に平和をもたらした功労者です。中尊寺は、そんな清衡が創り上げたかったこの世の浄土の願いが込められてい...

平家親派だった西行


西行が鳥羽院下北面にいた頃、平清盛と同僚であった可能性が高いようです。歳も同じです。出家した後、西行は高野山に入りますが、これは忠盛・清盛の高野山復興事業と関連する見方もあり、また、忠盛の西八条の邸に高野山の僧が集まったことを歌に詠んでいます。西行自身も忠盛邸に訪れていると考えて間違いないのかもしれません。

さらに源平合戦で敗れた清盛の子の宗盛とその子の清宗の処刑に際し、同情的な歌を残しています。上述したように、晩年に東大寺再建のための勧進役を務めますが、これも滅亡した平家の菩提を弔っていたという見解があるようです。

ですから鎌倉殿の引き止めにも応じなかったという西行のどことなく素っ気ない態度は、こうした平家との関係性があるのかもしれませんね。

預言の歌


西澤美仁著『西行』より引用
「願はくは花のしたにて春死なむ その如月の望月のころ」

私は春、花の下で死にたい。願わくは、釈迦入滅の2月25日のころに、満月の光を浴びた満開の桜が、私と私の死を照らし出さんことを。



西行はこの歌のとおり、一日遅れとはなりますが、2月26日に亡くなります。花が大好きだった西行が桜の花びらと共に散って逝きました。西行が息をひきとったのは葛城山中の弘川寺、もしくは京都東山の双林寺とも云われています。

西行戻りの松と西行戻しの松


龍口寺から常立寺・本蓮寺へと向かう道に「西行戻りの松」と掲げられた案内板があります。これは、西行が片瀬・江ノ島道の松のところで、村の童が鎌を持って歩いていたので「どこへ行く」と聞いたのに対し、童が「夏枯れて冬ほき草を刈りに行く」と和歌で答えたのに驚き、西行がもと来た道を引き返してしまったという伝承によるものです。

西行戻しの松の碑と江ノ島弁財天道標

しかしそれからしばらくして松島に訪れたとき、松島には西行戻しの松といって鎌倉と全く同じ由縁のものがありました。どっちがオリジナルなのでしょう。それともこれは西行が訪れた場所であれば全国どこにでもあるのでしょうか。

西行戻しの松公園からの景色

参考資料


西澤美仁著『西行:魂の旅路』

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