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光明寺 内藤家墓所

2013/08/08

鎌倉市

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光明寺には最大で4m程もある巨大な宝篋印塔が建ち並ぶ区画があります。江戸時代の大名で内藤家の墓所です。内藤家は光明寺菩提寺としていました。この圧巻の「遺跡感」に誰もが圧倒されることでしょう。

基本情報

名称  :内藤家墓所
所在地 :光明寺
住所  :神奈川県鎌倉市材木座6−17−19


内藤家


内藤家は平安時代に平将門を追討したことでも知られる藤原秀郷の末裔と云われています。その秀郷から時代が下って、頼俊の代に内舎人に任ぜられたことから、内舎人の「内」と藤原氏の「藤」をとって内藤という苗字を名乗ることになります。ですからこの頼俊が実質上内藤家の祖と云えるのかもしれません。

光明寺

それからまた時代が下った義清の代で松平氏に仕えたことから、その孫の家長が徳川家康の下で軍功をたて上総佐貫二万石に封ぜられます。

光明寺の資料によると日向延岡がどうやら嫡流のようで、その他に陸奥湯長谷・三河挙母・信濃高遠・志摩鳥羽・信濃岩村田・越後村上といった庶流があるようです。例えば北条氏庶流がそれぞれ〇〇流北条氏と呼ばれるように、陸奥湯長谷は湯長谷内藤家、三河挙母は挙母内藤家と呼称されていたようです。そしてここ光明寺の内藤家墓所には嫡流の延岡家と湯長谷家、そして系図にはなかった磐城平という一族それぞれの墓所となっています。

またそれら各家ごと時代によって石高が変わるものの、延岡家の忠興が八万八千石を領したのが最高でその他庶流は資料によるとニ~四万石ぐらいだったようです。

内藤家墓所石塔群


宝篋印塔が大よそ60基、燈籠が大よそ120基、その他に手水鉢や地蔵などの石造物が一面を埋め尽くしています。凄い迫力です。自分の背丈よりはるかに高い石塔群が整列して迎え入れてくれているようでした。

内藤家墓所
内藤家墓所
内藤家墓所
内藤家墓所
内藤家墓所
内藤家墓所

中世の石塔と違って線刻が鮮明です。こちらは延岡城主の政陽さんのお墓だということがすぐに分かります。例えば内藤家であれば「藤原朝臣」、北条氏であれば「平朝臣」というように、公式な場所で「姓+朝臣」と名乗るのが習わしのようです。

政陽さんのお墓

光明寺旧境内絵図


当たり前ですが享保五年(1720)に作成された光明寺境内絵図に内藤家墓所が描かれています。右端の部分です。また光明寺から内藤家墓所に向かう経路も現在の区画と変わりません。昔と違うのは途中に幼稚園があることでしょうか。

光明寺旧境内絵図一部

江戸時代の武士は武士というよりも既にお役所勤めの役人といった感じなので、管轄地で一揆などの不祥事が起きれば大きく減俸されていたようです。鎌倉時代のように、その役職が欲しければその職に就く一族を滅ぼしちゃえばいいじゃんっ!という訳にもいかないので、それはそれである意味大変だったのでしょう。というかどっちも大変ですよね。

補足敷地外からただ眺めることもできますが、光明寺から鍵を借りて敷地に入ることもできます。

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